室町時代の末期の天文6年(1537)大仙寺(八百津町)4代目住職先照瑞初和尚が長城寺を建立した。永禄8年(1565)織田信長は猿啄城攻略に功のあった黒母衣衆筆頭の河尻秀隆(鎮吉・河尻肥前守)を城主とした。河尻秀隆は先照瑞初和尚に帰依し、長蔵寺を菩提寺にするため、先照瑞初和尚の高弟傅芳慈賢和尚に請じて創建した。
黒母衣衆:織田信長に近侍する家臣団で片方に赤母衣衆。それぞれ定員10名の警護部隊である。母衣は背中に装備する布で風で膨らみ背後からの流れ矢から防御する。
河尻秀隆は、その後岩村城・甲府城城主を勤めるが、本能寺の変直後の天正10年(1582)6月18日甲斐国にて没、没年56歳。甲斐の秀隆は徳川と旧武田勢力に襲撃され打ち取られた。なお越後の春日山城攻略中の森長可は木曾谷方向へ逃走した。森長可は信長亡き後の秀吉と家康の戦い「小牧長久手の戦い」で秀吉側に付いて小牧山城攻略で敗北し、岡崎城攻略で亡くなった。
河尻秀隆の肖像画は貞享5年(1688)長蔵寺第八世南谷祖琢和尚代の作と伝えられている。
長蔵寺には、「長蔵寺殿洞水端雲大居士」の位牌が安置されている。河尻秀隆の子孫によって秀隆及びその子直次(苗木城城主)・鎮行・旧家臣の墓が建てられており、河尻秀隆菩提寺の面影を残している。写真は河尻直次の墓。
苗木城:中津川苗木の城で、岩村城を本拠とする遠山氏が木曾北部の所領確立のため砦を築いた。小笠原氏が侵攻するも撤退し、再度遠山氏が握る。しかし木曾義昌に落され、織田勢の森長可が攻略し河尻長次が城主になるも、1年後に徳川勢の遠山友政が奪還した。
参考:
坂祝町教育委員会の看板