楽田村にある。織田弾正左衞門尉久永が築き居住した。その後、津田下野守信清が攻め取り、持城とする。永禄年中(1558-1570)信長公は信清を追い、坂井右近政尚に守らせる。

秀吉十二万五千の大軍で楽田に進軍

天正十二年(1584)長久手の戦の時、秀吉公の本陣とされた。『太閤記』によれば、羽柴筑前守秀吉が尾張に出た訳は、津川玄蕃允・岡田長門守・淺井田宮丸、秀吉のために織田信雄に誅せられた事への鬱憤を晴らす為だとか。先勢が濃州垂井・赤坂・巣股(墨俣)辺りに着陣し、後陣はいまだ醍醐・山科・宇治・勢多(瀬田 )辺りに充満して、大坂の勢力を待っていた。前後の勢力、十二万五千が来たという。秀吉卿は三月二十一日大坂を立ちなされば、宇治・瀬田辺りに控えていた勢力も次第に合流。二十三日四日には、先勢犬山の下の大豆戸の渡を越え、犬山・五郎丸辺りに陣取り、日をおって後陣の勢力あまた合流する。こうしている間に秀吉卿も二十七日午刻(12時)に川を越えなさり、犬山の城に入りなさったが、未刻(14時)に楽田・羽黒辺りまで、諸大名を召しつれて打って出て、「(家康のいる)小牧山に対し、向城多くこしらえ」と評定された。

家康の小牧山に対する楽田城の布陣

二重堀の要害が一の先手と、日根野備中守舎弟彌次右衞門子供五人、勢力二千騎余りを置く。岩崎山の城には、稻葉伊豫守子息右京亮彦六・同名右近勘右衞門、勢力四千余、小松寺山の城には丹羽五郎左衞門尉長秀、勢力八千、青塚の城には森武藏守、勢力三千余、内久保山の城には蜂屋出羽守・金森五郎八、勢力三千、その他、里より里、嶺より峰をつゞきに陣取ったので、夜に入って篝火が夥しかったのであろう。

幻となった大規模な陣城と、現在の楽田城址

羽黒城は秀吉公の本陣だったが、塁の高さ南は3間 (5.4m)、東は 4軒 (7.2m)、 堤長は22間(39.6m)×11間(19.8m)×20間(36m)×16間(28.8m) 程でとても大規模な陣城であった。 しかし、戦いの講和の条件として廃城となった。砦や土塁など全てが破脚・埋められた。

現在では楽田小学校の校舎や運動場が出来、その時の名残りはほとんどみられない。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

犬山市城山
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