瑞雲山政秀寺。白林寺の南隣にあり、同宗同末で臨済宗、京都妙心寺の末寺。天文年中(1532-1555)平手中務大輔政秀菩提の為、信長公が建立した。平手政秀は、若く傍若無人だった信長を諌めるため自殺した。僧澤彦を開山とする。
澤彦は備後守信秀(信長父)の求めにより、その子吉法師丸の諱を「信長」とつけたが、信秀は難じて、
「信長の反は桑である(後述)。桑は蚕に喰われる、いかがあらん」
澤彦答えて、
「然らず。桑(桒)の字を折れば(「十」が四つと「八」で)四十八となる故、仏徒は吉兆とす。そのうえ我が国の本名は「扶桑」なり。終に天下を得られるべし」
果たして天下は掌握したが、信秀の難問もまた空しくなく。四十八歳を過ごして、程なく飼子(かいこ=蚕)に等しい明智によって事があったのは、誠に奇代の先兆である。
また、永禄四年(1561)信長公の命により、稲葉山の城地「井野口」を改めて岐阜とし、また信長公に『布武天下』の印章を捧げたのもみなこの澤彦である。
※反について
反切のことで、二つの漢字を使って一つの漢字を読む。一つ目の漢字から頭の音(子音)を取り、二つ目の漢字から後ろの音(母音)を取る。
参考
『尾張名所圖會 前編 巻二』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)