岩倉村にある。今は田圃となり、字を城跡と呼ぶ。

信長に立ちはだかった「上の織田」

はじめ織田敏信が築き、一族が守った。

織田氏は、斯波(しば)氏が尾張の守護を兼ねた時、越前國織田より一族を挙げて尾張に移り、やがて尾張の守護代に任じられた。信長が生まれた頃には織田家は二家に分かれていた。正嫡と推測される織田伊勢守家は当城を拠点に上四郡(丹羽・羽栗・中島・春日井)を司り(上の織田)、傍流の織田大和守家は清須城に守護斯波氏を擁して下四郡(海東・海西・愛知・知多)を司った(下の織田)。

当城主の信安は大和守敏信の子で、武勇・文事を兼ねる良将だったが、下の織田の信長公と不和になり、 浮野・岩倉等で合戦が勃発(後述)。信安の子の信賢が負けて、家老稻田修理亮・前野小次郞等が奸計もあり、永禄二年(1559)退城する。

なお『總見記』及び『尾陽雜記』等には、信安病死の後廃城となったことが見えるが、信安は天正十九年(1591、卯)十月二十四日に八十五歳にして没している。また『創業録』の凡例に、「織田伊勢守信安は、父祖より氏も名も名乗も同じく、誰某と分け難しと、信安の子津田新十郎入道三入の物語なり」と書き、何代目の信安といっているように見えるが、家の系譜によれば曾て無い事である。

山内一豊のルーツ

岩倉織田家には、山内氏・前野氏・高田氏の三家老がおり、山内氏はのちの土佐藩主の山内一豊の家系といわれる。一豊父の盛豊は葉栗郡黒田の城主で、天文18年(1549)3月に尾張国籠守黒田天神に鰐口(仏具で円形の鈴)を寄進している。

城の規模と現在の姿

東西五十間、南北九十四間の規模で、二重の堀が囲まれていた(『尾州府志』)。現在の下市場外堀町の東側は明治初年まで田地であり、幼川の堤まで続いていた。今でも掘り返すと松葉が出るという。城は南面し、「城跡」という小字の南に「丸の内」という小字が残る。

岩倉落城

織田伊勢守信安は信長公と不和になり、信長が他国へ出陣している間に、旗をあげて敵対する事度々に及んでいた。

信長出陣

永禄元年(1558)七月十二日、信長公二千騎余を率ゐて、岩倉の城を攻めようと浮野に出た。犬山からも織田十郎左衞門信清、千騎ほど馳せ加わり、都合三千騎余に成る。岩倉城からは三千騎余うち出て、こゝに激突する。信長公の命により、弓・鉄砲を斜めに廻らして配置し、隙間なく撃ち懸かれば、敵方は横鑓に突立てられないよう、備えを立て直そうとする。その虚をつけ込み、森三左衛門・中條小一郞等、いずれも咄と聲をあげ、一度に突いてかゝれば、岩倉勢たまりかねて、城際まで退く。

岩倉勢の逆襲

信長公と信清は、南北に別れて岩倉へ追撃する。城方の軍将はこれを見て、犬山勢は僅か千騎にすぎない、今こそ討ちとれと、三千騎余が一度に打ち出れば、犬山方の土倉四郎兵衞・和田新助・高木左吉・生駒勝助・中島主水正・猪子二左衞門等精鋭の兵士、浮野川を越して戦う。

槍を捨て

岩倉方の前田左馬允は、もと犬山の武士だったが、近年岩倉に属し、今日の合戦を指揮していた。四郎兵衞はこれを見て、引き組んで勝負を決っしようと、槍を捨てて素手で組んで、上を下へと転んだが、遂に前田の首を提げて帰ってきた。こうして犬山から、信長公に引き返し、敵大勢にて難儀なる由、早馬が申し上げれば、又引き返し、馬烟を立てゝ見えたが、この合戦に精鋭の兵共九百余り討ち取って、信長公は清須へ帰陣した。

孤立無援の城

この次の年また岩倉へ押し寄せ、二三箇月きびしく攻められて、敵は叶えられぬと思ったのか、城を明けわたし、皆々ちり〴〵になったと、『織田軍記』『織田眞記』等に見える。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)


岩倉市下本町城址
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