慶長九年(1604)、井伊氏が築いたところであり、代々ここに居た。
井伊氏の姓は藤原左大臣冬嗣から出た。冬嗣第七子を内舎人良門という。良門の五世の孫・備中守共資が遠江国村櫛に居り、その子を備中大夫共保という。その子孫・信濃守直平が井伊谷に移り住み、よって井伊氏と称した。直平は今川氏に仕え、宮内少輔直宗、信濃守直盛と代々続き、永禄三年(1560)五月、直盛は今川義元に従って桶狭間で戦死した。
叔父・直満の子の直親が継ぎ、家臣がこれを奉じて信州伊那に匿った。やがて再び井伊谷に帰り、奥山因幡守を頼った。間もなく讒言する者があり、直親が織田・徳川の両氏に通じている、と。今川氏真は怒り、これを攻めようとした。直親は自ら冤罪を申し開こうと駿府へ赴こうとしたが、途中で戦死した。
その子・万千代(のち直政)は生後二歳であり、氏真は殺そうとした。家臣の新野親規がこれを請い養育した。その妻は一寺に託し、のちに松平清景に再嫁し、孤児を迎えて養育した。天正元年(1573)、徳川家康が出かけて猟をした際、一人の子供を見て尋ねたところ、井伊氏の遺児であった。そこでこれを連れ帰って侍臣とした。のちに井伊谷を与え、木俣・椋原・西郷の三臣に補佐させて、十五歳になると元服し直政と名付けた。
天正十年(1582)春、武田氏を滅ぼし、その家臣を直政に与えた。軍装はみな赤を用いた。七月、駿河田(高田等)二万石を加えられ、旧領と併せて四万石となった。十二年(1584)、小牧山の戦に先鋒となり、堀秀政を撃って破った。六月、蟹江城を取り、八月、二万石を加増された。十三年(1585)、信州に入り真田氏と戦った。十四年(1586)、家康が京に入った際、豊臣秀吉の母が人質として岡崎城にやって来た。直政はこれを警護し、非常に手厚くもてなした。十一月、従五位下に叙され、兵部大輔に任じられた。十八年(1590)、小田原の陣に従軍して功をたて、八月に上野箕輪に封じられ、十二万石を領した。十九年(1591)、奥羽に入り九戸氏を攻めた。
慶長三年(1598)、豊臣秀吉が崩御し、大坂の奉行らが家康を除こうとした。直政は伏見におり、常に家康を擁護した。五年(1600)六月、家康は上杉氏を討ち、直政は従って小山へ赴いた。八月、大坂の兵(反家康軍)が出発し、先鋒となって美濃に入った。関ヶ原の戦いでは軍功はたいへん多く、十二月に佐和山城に封じられ十八万石を領した。七年(1602)二月、直政は没した。年四十二。直政は徳川氏の創業を助け、偉大な功績は諸将の中で抜きん出ており、徳川功臣の第一に位置する。
これより先、家康の命を受け金亀山に城を築いていたが、未だ成らず没した。長子の直勝が継ぎ、八年(1603)二月、正五位下に叙され、右近大夫に任じられた。九年(1604)、徳川氏が築城の事を監督し、城が完成して彦根城と名付け、直勝はここに移った。十一年(1606)五月、直勝は従四位下兵部少輔に進んだ。この年、天守閣が完成した。
彦根の名は、金亀山に活津彦根命が降臨されたことから名付いたという。金亀山に観音堂があり、昔は彦根山の観音といって天皇の行幸があったほか、二條天皇の勅願所となっていた。井伊氏が城を築くときにこれを山の下に移した。
十八年(1613)徳川氏は直勝に諭して異母弟の直孝に家督を譲らせ、直勝を安中に移した。十九年(1614)冬、大坂の陣で直孝は先鋒となり、元和元年(1615)夏、再び先鋒となって大坂を攻め、豊臣氏は滅んだ。六月、五万石を加えられた。直孝は従五位下掃部頭に任じられていたが、ここに至って四位侍従に進んだ。五年(1619)さらに五万石を加えられた。寛永二年(1625)大老となり、三年(1626)八月左少将となった。十年(1633)四月、五万石を加えられ、十一年(1634)七月、さらに五万石を加えられ、併せて三十五万石を領した。正保二年(1645)四月、正四位上左中将に昇進した。万治二年(1659)六月没した。年七十。
長子の靱負佐直滋は病気があり、四子の玄蕃頭直澄が継いだ。従四位下侍従となり、寛文五年(1665)四月大老となり、左少将に進み掃部頭に任じられた。延宝三年(1675)十一月に没した。年五十一。
兄・直時の子の玄蕃頭直興が継いだ。掃部頭・左少将となり、元禄八年(1695)十一月に老中となり、十年(1697)六月に大老となり、左中将に任じられた。十四年(1701)三月隠居し、次子・直通が継いだ。従四位下侍従・掃部頭となり、左少将に進んだ。宝永七年(1710)七月、直通は没した。年二十二。
弟の主計頭が継ぎ、従四位下侍従・掃部頭に任じられたが、十月に没した。年十八。
弟の直惟が嗣子となったが、なお幼少であったため、父の直興が再び家督を継ぎ、さらに直該と改名した。正徳元年(1711)二月、再び大老となり、十月に正四位上左中将に進んだ。四年(1714)四月隠居し、備中守直惟が継いだ。五年(1715)四月、左少将・掃部頭に任じられた。享保三年(1718)四月、直該没し、年六十二。十年(1725)二月、直惟は左中将に任じられ、二十年(1735)五月に隠居した。
弟の因幡守直定が継ぎ、掃部頭に転じて左少将に任じられた。元文元年(1736)六月、直惟没し、年四十五。二年(1737)二月、直定は左中将に任じられ、宝暦四年(1754)六月に隠居した。
兄・直惟の子である備中守直禔が継いだが、まもなく病気になり、八月に没した。年二十八。九月、直定が再び家督を継ぎ、五年(1755)七月に隠居した。
直惟の子・直幸が継ぎ、掃部頭に任じられた。十年(1760)十一月に左少将に任じられ、十三年(1763)九月に従四位上に叙された。明和二年(1765)十月に左中将に任じられ、安永七年(1778)正月に正四位上に進んだ。天明四年(1784)十一月、大老となり、七年(1787)九月に病気のため辞職した。寛政元年(1789)二月、直幸は没した。
第四子の直中が継ぎ、掃部頭に任じられた。八年(1796)十月に左中将に任じられ、正四位上に進んだ。文化九年(1812)に隠居した。
次子・直亮が継ぎ、掃部頭に任じられた。十一年(1814)五月に左少将に任じられ、十四年(1817)二月に従四位上に叙されて左中将に任じられた。天保六年(1835)十二月に大老となり、十二年(1841)五月に職を辞した。
のち義弟の直弼が継ぎ、従四位下左少将・掃部頭に任じられた。のちに正四位上左中将に進んだ。安政五年(1858)四月、大老となった。これより前、アメリカの使節が浦賀に来航して和親を求めたため、幕府はその措置に苦しんだ。そして攘夷の説が天下に起こり物議騒然となった。直弼は海外の情勢を察して攘夷が誤りであることを知り、アメリカと和親を結んで貿易を許した。そのため一時的に人心を激昂させたが、後世はその卓見に感服した。万延元年(1860)三月三日、登城の道中、桜田門外において過激派の難に遭った。実に惜しまれることである。
文久二年(1862)十一月、その子・直憲が継ぎ、従四位下に叙され左少将・掃部頭に任じられ、のち左中将に進んだ。明治二年(1869)六月、版籍奉還を行い、四年(1871)七月に廃藩となった。
参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)