富田村にある。俗に車返御所屋敷という。里老の相伝えるところによれば、業平朝臣がこの地に住んだと。或いは荒尾氏が当郡に住み、その姓が在原であったが、その子孫が祖考の墓を築いたところ、後の人が誤って業平朝臣の塚としたとも。
また、東北の方に貴船社があり、業平朝臣の本居神であるとも言い伝えられる。また同郡加木屋村に業平の烏帽子塚と称するものがある。
すべてその説は一定でないが、里老の口碑を移すのみ。
同村秦道武という人の子で、母は熱田の神職の娘。後三條院の延久四壬子年(1072)正月元日に誕生し、十二歳の春、叡山兜幸谷の恵心院の良賀法印のもとで台教を学び、剃髪して本覚坊良忍と名乗った。
その頃、東塔の西谷無動寺へ千日詣をなし、隱遁の心行を祈り、二十三歳の秋、素懐のごとく大原の奧に隠れて、
のがれてもえこそゆるさね世のうさをいとひ來てすむ大原のおく
と詠した。このようにしてこの地に来迎院を草創し、結界法を修めようとしたところ、鬼魅共に語って言うには、「上人の法力いかでか當るべき、我等いそぎ退散すべし」と。上人に親しく聞かれたという。
またある時は八字文珠法を修したところ、庭上の大石が変じて獅子となり吼えたという。またある日は鞍馬寺の毘沙門天が霊人となって現れ、上人に来謁して、「師何ぞ融通念佛を唱へざるや」と。これを機に上人は遂に融通念佛を僧俗男女に勸められた。上は空也上人、下は源空上人に及び、六字稱名弘通の功徳が末世に盛んになったのは、皆上人の法力であると云々。
長承元年(1132)二月朔日、六十一歳で寂す。安永二年(1773)十月十六日、勅により聖應大師と諡号を贈られた。なお詳しくは『元亨釋書』及び『大念佛寺兩祖繪詞傳』等に譲る。
参考:『尾張名所圖會 前編 巻六』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)