寛弘二年(1004)五月八日、宇津呂村の松林に鎭座した。後世、社家から毎春松葉を氏子に分配し、遺風となった。その後、比牟禮山に社殿を建て遷座し、上の社とした。また、山下に一社を建てて神功皇后玉依比賣を合祀し、下の社とした。豊臣秀次が城を築いた時に上の社を山下に移し下の社と合祀して一社とし、今の社はこれである。
祭礼は毎年四月卯日から午日。卯日の夜は氏子数十人が松明(たいまつ)を持って躍る。「卯の夜躍」という。午日は神輿を担ぎ、数多の練(供)物を出す。末社に岩戸社、若宮、百大夫、大島社、午頭天王の五社があり、別当普門院は天台宗延暦寺の末寺だった。徳川家光のとき社領高五十四石三斗余を付せられた。
参考:『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)