南には矢内川、北には矢津川が流れ、七尾七谷と呼ばれるほどの複雑な尾根や谷が広がる天然の要害。

伊勢国司北畠氏は村上源氏の後裔。南北朝(吉野朝)時代、武士勢力は鎌倉幕府など反動勢力に加担せず、一方で古代国家政権の中興も失敗し、郷村で分権的勢力を確立した。北畠親房は吉野朝廷の元勲として活躍し、延元三年(1338)に子の顕能は初めて伊勢守に封ぜられた。北畠氏は9代234年にわたって、多気を根拠地に勢力を振るった。

永禄12年(1569)、南伊勢の北昌具教は信長の伊勢侵攻に備え、大改修を行った。同年8月28日、稲葉一鉄や池田信輝、森可成、丹羽長秀、木下藤吉郎、柴田勝家、佐々内蔵助、不破河内、丸毛兵庫以下五万の大軍が四方から大河内城を囲み、大手口から攻めかかった。しかし、幾度も総攻撃があったにも関わらず、城は落ちなかった。それどころか、信長の本陣も裏側からの夜襲に遭うことがあった。9月8日、池田、稲葉、丹羽が搦手からの夜襲を試みたが、雨で鉄砲が使えず失敗した。

籠城は50日に及び、10月に入った。木下藤吉郎は策略を巡らし、城主北昌氏の妻子を捕らえてしまった。さらに霧山城では、大河内宮内少輔と森本飛騨守が2,000の兵を率いて城を守っていたが、秀吉の奇襲であっけなく落城した。この落城により大河内城の城兵の士気は大いに動揺し、ついには餓死者が出るまでになり、降伏するに至った。

10月4日に和議が成立し、信長の次男信雄を北昌具教の養子とし、具教は大河内城を信雄に譲って隠居した。伊勢国は滝川一益と織田信包(信長の弟)が管掌し、信雄には津田一安が家老として付けられた。信長は南北伊勢を全く統一した。

その後、永禄12年になると再び上洛したが将軍足利義昭と衝突した。状況から判断すると、三国司家(国司として赴任し領国経営した、飛騨の姉小路家、伊勢の北畠家、土佐の一条家)の一家北畠氏を討伐したことが想定される。翌永禄13年に信長に政権を委任する条書を義昭が承認し和解した。しかし将軍の権威を無視した内容であった為、義政は信長に対抗するよう越前の朝倉義景氏をはじめとする諸勢力に将軍御内書を送り暗闘を続けた。

参考:
兼山町史 森家先代実録「城」附なつ草
和田裕弘『織田信長の家臣団』中公新書、2019年

松阪市大河内町
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