御嵩驛は中山道開設の初めからあり、慶長七年(1602)二月二十四日付の家康の侍馬朱印状が残る。なお、中山道の宿驛のなかで朱印状が残るのは当驛のみ。

慶長八年(1603)冬、幕府は当驛に以下の「覚」を下した。なお現代語訳しています。

大久保石見守の「覚」
  • 一、伝馬の事
    • 上り:二十五疋までの荷は大井から大久手(大湫)で引き継ぐ。二十六疋から上は大井の馬を御嵩まで通す。大久手より御嵩まで駄賃は大久保が支給するため、その都度、役人の新六の方から伝馬衆へ駄賃を渡して後日勘定すること。人足は十人までは大久手で引き継ぎ、そのほかは右と同じとすること。
    • 下り:二十五疋までは大久手で引き継ぐ、二十五疋を超える大伝馬は、御嵩宿の馬者では無用のため、在郷の兼山の馬で大井まで送ること。同様に人足は十人までは大久手で取り次ぎ、十人を超える場合は右と同様とすること。
  • 一、手形は、常々定めていた通り、手形ない者には馬と人足を一切出してはならない。たとえ手形ありといっても、実際に見せず申す人があっても一切出してはならぬこと。
  • 一、法に洩れる荷物を渡し、無理を申しかける者は、手形ありといっても、一切人馬を立てる必要はない。
  • 一、馬の進みがおそいと打ち叩くなど非道の人がいればその宰領の名を書き付け、はばかりなく早急に申し上げよ、もし名を隠し申さぬ者はどこまで跡を追い申し上げること。加えて、もし大久保の家中の者にそのような者がいれば驛中で協力し、非分の人を仕留めて申し上げること。 

慶長八年(1603)十月廿九日 大久保石見守
  みたけ總中同といや  
(『野呂文書』)


御嵩驛の状況

当驛の元高は千石。伝馬役。堤役は引かれ、木曽からの木工品(木具征)の御伝馬を多く勤めることによる。よって、落合・中津川・太田・鵜沼宿より倍の役が引かれていた。賃銭は上り(伏見へ一里八町)一人二十文、 一匹四十二文。

慶安四年(1651)調べで、人口676人、馬53疋あった。伝馬助郷は初め石高1万1710石余が附属していたが、元禄七年(1694)改めて十九箇村1万1099石となった。

中村 送木 顔戸 比衣 柿田 平具戸 久々利 羽崎 伊岐津志 石森 上瀬田 牧野 兼行 野上 中瀬田 下瀬田 古屋敷 淵上 柿下

参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)

可児郡御嵩町御嵩1516番地1
種別