土岐郡。土岐美濃守光衡が土岐郡土岐に住む。その後、光行、光定、頼員の三代が浅野に住み、頼貞が高田へ移った。なお、この後にも城主が有った。

初代土岐氏 頼貞

文永七年(1270)に、当地浅野館で土岐光定の七男の土岐頼貞が生まれた。母は執権北条貞時の娘である。やがて土岐氏の総領となり、鶴ヶ城を本拠に東濃一円を支配した。居館は一日市場、大富、高田(現多治見あるいは土岐市定林寺)にあったという。

頼貞は土岐家を中興した。元弘三年(1333)に鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政によって国司と守護が置かれると、足利尊氏に属していた頼貞は美濃国守護に補任された。以来、守護職は十一代続く。頼貞を「初代土岐氏」とするのはこのためである。尊氏と頼貞はともに源氏で、尊氏から重んじられ『土岐家聞書』には「土岐絶ゆば足利たゆべし」「御一家の次、諸家の頭たるべき」とあり、正月の椀飯の儀式でも管領家に次ぐ待遇を受けた。

頼貞は『尊卑分脈』に「歌人」「弓馬上手」と記された。『玉葉集』『風雅集』『新千載集』『新拾遺集』『新後拾遺集』など勅撰和歌集に十歌近くの和歌が選ばれ、『夢窓国使道歌集』にも十数首の疎石との贈・返歌が載る。

頼貞は早くから禅宗に帰依し、北条時宗に招かれて鎌倉に円覚寺を建てた宋僧・無学祖元の高弟である高峯顕日(仏国国使)を招き、定林寺(現土岐市)や興禅寺(光善寺-現瑞浪市)を創建した。なおいずれも廃寺となっている。さらに顕日の高弟・夢窓疎石、元翁本元(仏徳禅師)らも訪れ、正和二年(1313)虎渓山永保寺が開かれた。頼貞自身も入道し、法名を存孝とした。

正中の変で十男頼兼を失い、建武三年(1336)には六男頼清が病死した。頼貞は当時、伊予国守護として九州から東上する尊氏を助けていたが、尊氏の挙兵以来同行していた七男頼遠に家督を譲った。以後は高田館で参禅に明け暮れ暦応二年(延元四年-1339)に没した。高田館は現多治見市高田にあったとも定林寺にあったとも伝わる。

『村庵小稿』に、その最期がある
二月二一日、病の重くなった頼貞は、仏徳を賛える偈を書き、二二日と記した。左右の者が誤りを指摘すると、頼貞は笑って「我は明日死ぬ」といい、和歌一首を詠んで辞世とした。土岐氏の菩提寺である興禅寺(光善寺)に葬られ、現在も廃寺跡に宝篋印塔が建てられている。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『多治見市史 通史編 上』(多治見市、昭和五五年)285、286頁

土岐市
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