日本武尊が永上へ通われた古道であり、引き潮には歩いて渡ることが出来たが、満潮には渡ることが出来なかった。こゝからあちら側へ呼び継いだことから、このように名付けられたという。昔はこの辺りから、山崎や笠寺のあたりまで入り海(入江)だったが、南は大きな堤を築き、潮が入るのをとゞめて新田として開墾してからは、今のように陸地となった。
日本武尊が『この夕しほにわたらへんかも』といい、また『方角抄』に「よびつぎの濱には海士の家居あり、鹽屋かず〳〵見えたり云々」とあることからも、古くからの浜辺の道であることは明らかである。
『新後拾遺』
あつたの亀井の寺に住んでおりました時に、あまた詠みました歌の中に濱千鳥を
鳴海がた 夕なみ千鳥立かへり 友(とも)呼續の 濱になくなり
嚴阿上人 鳴海の潟に夕波が寄せては返し、千鳥が飛びたち戻っては、「呼続浜」で友を呼び浜で鳴いていることよ
冬
『尾張八景』
呼繼落雁
さらでだに 落ち來る雁の名にめでゝ 喚繼(よびつぎ)の濱に 聲やそふらん
佐野紹益 ただでさえ舞い降りてくる雁が、名に惹かれて呼続の浜でいっそう鳴き声を響かせているよ
秋
題しらず
旅人の 間なく時なく呼繼の 濱のわたりの ゆききをぞ思ふ
法印金幢 旅人たちが絶え間なく呼続浜の渡しを行き交っていることに、思いをはせる
みつ汐の 入江や谷の 秋の聲
満ち潮の入り江や谷あいに秋の声が響いているよ
秋
また桶狭間合戦の際(永禄三年-1560)、信長公が熱田の神前に願書を奉げられた時、加藤図書(順盛)が社殿の下に控えていた。信長公が神酒を頂戴の際、図書を召され「酌せよ」と仰せられたので、御酒を禰宜(神職)の手から請け取ってお酌を差し上げると、信長公は「今日の軍にかたう」と仰せられて御頂戴された。
さて、熱田御出馬の際、順盛に向かい、「今日勝ち戦して見すべし、汝熱田の者どもに竹竿一本づゝ持たせ、追って来るべし」と仰せられた。図書は畏まり、召しつかいの者や出入りの輩に申し付け、竹竿や得物道具を持たせて従わせた。突然のことで、僅か七十人ばかりで出たが、追い追い駈け付け二百人に及んだ。しかし、戦場に到着する前にはやくも義元の討り死にがあったため、戦は終わっていたことが、『桶狭間合戦記』に見える。
慶長御一統(徳川家康による天下泰平)の後、図書助の旧領、知多郡加家村の地を食邑(領地)に下されて天保の頃にも連綿として繫栄していた。「東加藤」と称している。
『榮葉和歌集』
熱田の加藤図書の元に、あづま(東国)へ下るの日立ちに立ち寄って
浦山し かへらぬ浪のむかしまで 見るめにうかぶ 海づらの宿
大納言光榮卿 羨ましく思うよ。返ることのない波のような遠い昔まで、目に浮かぶような海沿いの宿
参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)