赤津村にあり。高田宗、伊勢一身田專修寺の直末。「老分席」と称して、色衣も免許を与えられている。山号は関尾山。当寺は正應年中(1288-1293)の創建で、開山の海圓上人は、もとは武州豊島郡海源上人の弟子だったが、後に京都で親鸞聖人の直弟となり、聖人自筆九字名號眞影等授与されたという。その後、寛正五年(甲申、1494)三月六日、今村の城主松原下総守廣長、一貫四百文の田地を当寺に寄附した。今もその證文を寺宝とする。
本尊御自作。十六歲木像。天文年中(1532-1555)兵火の時、尊像は火中を飛び出し、後ろの林の檜の根元で火を逃れた。よって火除の檜と称し大木だったが、幕末頃には枯れ失せていた。その側に古い五輪塔があり今もなお残っている。また疫病等が流行する際は、当所の男女が大念仏を唱え参詣し、霊験はたいへん著しい。
聖徳太子伝記五巻。奥書によれば、
芹田坊の山門不出の秘書で、四天王寺の東門村の蓮華王院護摩堂で書写す云々。龍雄長老秘書といっても、道見と誓約の儀が有ることから、密かに写了する。寛正三年壬午(1462)孟夏(旧暦四月)吉日、筆者の沙彌元恭がこれを記録する。尾州山田郡内飽津保上村、太子堂に寄進する。寛正五年甲申(1464)三月六日。松原下總守廣長
とある。
太子絵伝、土佐光信筆。もとは四幅だったのを、中世に二幅失くし、新画で補う。
古鎧の切、太子守屋と御合戰の時、用いたといい伝える。伊予胴(鎧の一種)。
太子二歳の木像、御自作。
法然上人影像、親鸞聖人筆一幅。
松平下總守證文。同陣羽織。同位牌。『陽常院康貞王安居士』裏に『尾州今村城主松原下総守廣長。文明十四壬寅(1482)五月十五日』と見える。そのほか古器物・古證状等たいへん多い。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻四』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)