石田三成居址

秀吉とともに

石田村にある。

石田氏の祖と立身

石田氏の姓は藤原で、その祖を石田判官為久という。その子・藤右衛門為成はのちに隠岐守となり、代々この地に住んだ。

為成には二人の子がおり、長子・重成は木工頭となり、次子・左吉は宗成と名付いたのち、三成と改めた。左吉は幼い頃より機敏で賢く、村の観音寺で手習いした。時に羽柴秀吉が◎長浜城にあり、ある日野外に鷹を放って狩りをした際、たまたま観音寺に入って休憩し、喉が渇いて茶を求めた。そこへ左吉が出て茶を献じた。初めは大きな碗にぬるい茶を汲み、次は少し熱い茶を碗の半分ほど、次は濃い茶を小さな碗に汲んですすめた。秀吉はその才気に感じ入り、寺僧に乞うて連れ帰り、側近として仕えさせた。時に十三歳。これよりよく秀吉の意を汲み、寵愛は日ごとに厚くなって諸将はみなその鼻息を仰ぐようになった。

天正十三年(1585)七月、従五位下に叙せられて治部少輔に任じられ、三成と改名した。やがて◎佐和山城に封ぜられ、十八万六千石を領した。天正十八年(1590)小田原の役に従軍して武蔵に入り、館林城を攻め落とし、また忍城を攻め取った。文禄元年(1592)六月、朝鮮へ赴き監軍となり、諸陣営を巡視した。三成は才智があったといえ嫉妬深く、諸将のうち剛直な者を嫉みその功を消そうとし、たびたび中傷した。加藤清正の如き外征の功が諸将に冠たる者でさえ、秀吉の意に背く事態となり、秀吉もまた諸将を疑っていたため、三成の言うことはいちいち秀吉の意に合った。そのため三成はますます寵遇され、諸将はますますこれを忌む。これが豊臣氏の滅ぶ原因となった。慶長三年(1598)八月、秀吉没す。

関ケ原合戦

秀吉没後、五大老・中老・奉行らが天下の政事を執ったが、跡継ぎの秀頼はなお幼く、最も勢力のある者が徳川氏であった。三成は「豊臣氏の天下を奪う者は徳川氏なり。もしこれを除かざれば、後悔すとも及ぶべからず」と案じ、密かに謀りを巡らせて徳川家康と前田利宗とを離れさせようとした。両者が戦えば制することは容易であるとし、その企みの巧みな事は、あたかも小児が人形をあやつるかのようであったが、細川忠興に知略あり、その計略を見抜いて両氏を和解させたため、三成の策は為らなかった。そうして、浅井長政、福島正則、および細川、黒田、加藤らのような豊臣氏から恩恵を受けた者も、みな徳川氏に心を通わせ、三成を討とうとした。徳川家康はこれを制止し、かえって三成を擁護して◎佐和山へ退かせた。

ところが、三成はなおも徳川氏を陥れようと謀り、五大老の一員・上杉景勝と意を通じ会津に籠城させ、徳川氏がこれを攻めれば大坂から兵を挙げて挟み撃ちにしようとした。慶長五年(1600)七月、景勝は会津に拠り、家康は果たして大軍を率いて東伐に向かった。三成は大坂城にあって兵を募り、これに応じる者、三十六カ国、兵十三万九千余人。まず伏見・大津の二城を落として、美濃に進み、大垣城に入った。家康はこれを聞いて兵を返し、東海道・東山道(のちの中山道)の二道より西上した。九月、関ヶ原で開戦。大坂の軍は大敗し、諸軍散り散りに逃げる。敵兵進んで◎佐和山に押し寄せて攻める。城は落城、父の為成、兄の童成、子の重家とみな自害した。

茶畑の中で

三成は関ヶ原から草野谷へ逃れ、伊吹山の七曲を経て山中に隠れた。食糧尽きて困窮し、浅井郡に出て舜動院を頼った。ここは幼い時に手習いをした観音寺の支院であった。田中吉政、命を受けて捜索すること厳しく、寺僧、諭して立ち去らせる。

三成は破れた服を着て笠をかぶり、鎌を腰に差してきこりに扮し、井口村に出て下痢になやみ茶畑の中に伏していた。里人がこれを物色していると、三成その實を告げ一飯を乞うた。日暮れのころ里人の家に拠ると、その妻は恐れ夫に勧めて自首させた。田中氏やって来て捕らえようとすれば、三成は刀を取って「幸に自裁を賜え(自害させて欲しい)」と。吉政「子(お前)は乱の巨魁(首謀者)なり。その罪重し」と、そのまま捕らえた。三成は激しく罵ったが捕らえられ、徳川氏の陣へ送られた。のち三条河原で斬首された。

次男・左吉、歳は十七。高野山へ逃れるも、寺僧は入れず、同じく捕らえられ斬首に処された。

参考
『近江名跡案内図』(静里北川舜治、明治二十四年-1891)

長浜市石田町575番地
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