天明の頃(1781~88年)までは、少し川下の土田へ渡っていた。土田渡ともいう。大炊戸(オウイド)の渡といい、尾州名古屋へ渡るにも便利であったが、流路の変更により、上流の今渡へが新路となった。
竹藪の中に整備された道を歩くことが出来る。川上の太田橋(水色の橋)を望む。
執権北条義時は、後鳥羽上皇の意向に抗することが度重なり、公家達の不満が高まった。承久三年五月一日、城南寺の流鏑馬に紛れて近畿の兵が招集され「承久の乱」が勃発するに至った。美濃においては上皇方に与する者が多かった。
鎌倉方は駿河・遠江以東の十四ヵ国から十九万余騎を三手に分かれて京を目指す。東海道10万余騎、北陸道4万余騎、東山道は甲信の五万余騎。東山道の軍勢は武田五郎信光父子8人、小笠原次郎長清父子7人、諏訪小太郎信重、遠山左衛門尉景朝を将として、精兵を率いた。
上皇方は木曽川を防衛線と定め、土田(大井戸)、鵜沼の渡、板橋、池瀬、摩免戸(前宮)、稗島、印食、洲俣(現墨俣)、市脇(現長島)に陣を敷く(『吾妻鏡』)。しかし、大井戸・鵜沼の兵は三千余騎に過ぎず、既に勝敗は定まっていた。
六月五日、大井戸に東軍が着陣した。夕刻より渡河を開始し激戦が始まり、夜半には勝敗が決した。上皇方の大将・大内雅信は、智戸六郎ら二十五騎を川中にて射殺し、蜂屋入道も敵兵多数を討ち取るも、重傷を負い自殺。武筑後有長・糟屋久孝は奮戦及ばず負傷して退き、蜂屋入道の子・三郎頼俊は武田六郎と戦って討ち取られる。
鵜沼もまた敗走し、摩免戸も鏡久綱が奮戦するも、ついに退却。他の渡でも上皇方は次々と敗れ、東軍は破竹の勢いで京へ迫った。かくして天皇親政の回復を企てたこの乱は、却って北条政権を強化することになってしまった。
参考
『美濃加茂市史 通史編』(美濃加茂市、昭和五十五年)245-247頁