小折村にある。曹洞宗、当所久昌寺の末寺。山号は櫻雲山。当寺の開基はたいへん古いが、詳しい年月は知りがたい。永禄元年(1558)大庵和尚が中興する。

本尊の地藏菩薩は、仁明天皇の御時(833-850)に鋳造した銅像で、世に知られる霊像である。凶変が起こる時は、この像は汗を流れるように出す。当國(尾張国)六地蔵の一つで、常に参詣の人が多い。むかしこの尊像を盗み、讃岐國に背負って行き打ち砕いて、銅器に鋳造しようとしたところ、おそろしい威験を示して、毎晩怪異がすさまじく、土地の人は恐怖して本國尾張に帰した。その讃岐の高原天神の祠官はこの桜雲山常観寺で、曹洞宗・永平寺が本山である。

以前は真言宗だったようで、仁王門があり、その先に地蔵堂がある。この堂の本尊にお釜の上に立った鉄の地蔵尊がある。奇瑞を感じて、鰐口一口と櫻一株をこの尊像に添えて送られたが、今なお当寺にあって、その銘に『讃州山田郡十河郷高原天神鰐口。慶永十三年(1406)七月十六日』と見える。この尊像は釜の上に立ちなさる様子であるので、俗に釜地藏と称す。境内に桜が数株あり、山號の称は不思議でない。花の咲く頃はたいへん人が集まる。

鋳鉄製菩薩像

一躯、但し頭部と両手首、両足先は青銅。台座は直径55センチ、高さ6センチで、尊像は高さ1.6メートルある。鋳造の場所は、時代的に考えて、一宮市東浅井町から発掘された蹈鞴炉跡であると推測されている。このお釜地蔵の由来は根高の釜地蔵寺のものと類似な事が多く、両寺との殆ど同じ伝承がある。明治に愛知県下で用いられた高等小学校2年生(現小学6年生)の教科書にある。


『国定教科書高等小学校二学年生読本』第二十七釜地蔵

小折村の八龍に常観寺という寺がある。此処には釜地蔵の尊像を安置している。此の地蔵尊の由来がごく面白いから左に記さう。

釜地蔵の近所に夫婦者の百姓が仲睦しく住んでいた。二人は一人の男の子を蝶よ花よといつくしみ、ひたすら其の成長を楽しんでをったのに、ふとした事で妻は永久に帰らぬたびにおもむいた。親子の悲みはたとへようがなく、泣く泣く野辺の送りをすまし、淋しい月日をのみ送って居た。

其の中に世話する人があって、父は二番目の妻をめとった。後の妻は初めの間は優しかったが、日をふるにしたがって己の根生(こんせい)を現わし、未だいといけない子供を、夫の留守を見てはひどくぎゃくたいし、生きづの絶間もない程であった。

或日、子供の近所に遊んで居るを、用があるからと呼びよせた。子供は幼心にも家に帰って、いかなるひどい目に逢ふかと、ぶるぶるぶると帰って見ると、其れを見た母はいつになく優しく風呂に入れた。子供は大いに喜んだが、怪しくもふろにふたをし、下からどんどんと火をたきつけたによって、熱さに耐へかね外に出ようとしたけれどもふたも開かず、ただいたづらに苦痛の声をしぼるのみであった。妻は日頃悪いと思ふまま子を今日こそ煮殺してやろうと、どんどんと火をたいている。折しも帰った夫はそれを見て、「風呂の上に石のせてあるのは何故か」と問ひただしたに、妻はものもよういはず顔色を土の如くに青くし、そこそこに逃げかくれた。夫は急いでふたを取って見れば中には何物もなく、ただじはじはと湯のにえたつ音ばかり、ふしんに思ってをる所へ庭の一隅から自分の子が、はだかのままで出て来て、今までの一ぶしじゅうを話し、今にもやき殺されんとした所へ地蔵菩薩がおいでになり、湯よりだき上げて下さったといふ。子供は此寺の近くであったから、幼心にも地蔵菩薩の形をつくって信心をしていたから、其の心根をふびんに思って、かくは助けられたものであろう。此事を聞いた母は、今までの悪事を後悔し、其をはじて遂に尼になり、其の時のふろ釜を地蔵菩薩に差し上げた。それから名つけて釜地蔵というそうだ。此釜地蔵はこういう伝があるから、子供の守り仏として毎月二十四日を命日とし、ぼんの十六日、正月の二十四日は殊ににぎやふのである。


学童疎開

昭和十九年(1944)八月から名古屋市中川区の八熊国民学校(現名古屋市立八熊小学校)の学童疎開を受け入れた。受け入れ先は、古知野町(現江南市)で滝実業学校・永正寺・報光寺・泉徳寺の一校・三ヵ寺、布袋町(現江南市)で宝蔵院・久昌寺・道音寺・常観寺・般若寺の五ヵ寺。本部は布袋町宝蔵院に置かれた。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
東海鋳物史稿 綜合鋳物センター刊 常観寺の鉄地蔵尊 p137 吉原清行著
江南市教育委員会・江南市史編さん委員会『江南市史 本文編』(愛知県江南市、平成13年)660、661頁

江南市小折町八竜
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