足利尊氏公から十二代目の将軍足利義晴公の命(下知)により、牛屋川に沿わせる形で、天文四年(1535、乙未)に宮川吉左衛門尉が初めて城を築いた。
その後、城主は代々替わり、織田播磨守、竹腰道陣(道鎮)、永禄三年(1560)氏家常陸介卜全、元亀二年(1571)氏家左京亮、 天正九年(1581)氏家内膳、天正十一年(1583)池田勝入(恒興)、天正十二年(1584、申)秀吉公の甥である三好孫七郎秀次となった。秀次は、文禄四年(1595)の秋に、石田三成、増田長盛、大谷吉継の讒言(ざんげん、偽りの告げ口)により高野山にて自害した。
天正十二年(1584)木下美濃守秀長、同十三年(1585)加藤作内、同十四年(1586)十一月一柳伊豆守、同十七年(1589、丑)羽柴少将秀勝と城主が続いた。羽柴秀勝は木下法印一路の四男であり秀吉公の養子となった。高麗陣の時(朝鮮出兵)、巨済島にて病死した。
天正十九年(1591、卯)伊藤長門守、慶長四年(1599、亥)伊藤彦兵衛尉となった。彦兵衛尉は慶長五年(1600、子)九月十五日に関ケ原にて討死した。
慶長六年(1601、丑)石川長門守、同十二年(1607、未)同日向守、同十四年(1609、酉)同主殿頭、元和二年(1616、辰)松平甲斐守、寛永元年(1624、子)岡部内膳正、同九年(1632、申)同美濃守、同十年(1633、酉)松平越中守、同十二年(1635、亥)戸田左門と続いた。
大垣の地の戦記に「牛谷川景清の瑞」というものある。天文十七年(1548)九月三日、尾張国◎古渡の城主織田備後守信秀(弾正忠家)が、美濃の斎藤道三の逆意を憎み、攻め立てようとして、織田因幡守(大和守家)を大将とし、一万人余の兵を率いて美濃に侵入して所々に放火し、同月二十二日、◎稲葉山城下に取り掛かり村々にことごとく火を放ち、町口まで押し寄せた。すでに日も暮れはじめ、軍兵を引き揚げさせたが、諸陣が半分ほど引き退いたところで道三はこれを見て、軍勢を揃えて徒歩の兵として前後に立て、「敵はただ打ち捨てにして、決して首級を取るべからず」と命を下し、南に向かって進み、一斉に斬りかかった。
尾州勢は大いに慌て、支えかねて切り崩され、ことごとく敗れた。織田与次郎実近・織田因幡守・同主水・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・寺沢又八・毛利藤九郎・岩越喜三郎をはじめとして、尾張の者五十人余が討ち死にした。なかでも千秋紀伊守は、その頃、いにしえの平家の盲士・悪七兵衛尉景清の重宝である蘇丸という太刀を所持していたが、最期の時にもこの太刀を帯びていた。紀伊守が討たれた後、斎藤方の兵・蔭山掃部助が、またこの太刀を求めて帯びた。さて、あの大垣の城には、尾張より織田播磨守信辰を入れ置いた。
斎藤道三、尾張勢の敗局に利を得て、この勢いの冷めぬうちに急ぎ大垣城を攻め取るべしとして、近江の佐々木義秀・浅井久政のもとへ加勢を乞い、同年十一月の初めより、多勢で大垣城を取り巻き、攻め寄せた。
この時、蔭山掃部助は道三方の先手の将として、かの蘇丸の太刀を携え、大垣の近く牛谷の寺内を焼き払って敵に打って出ようとした。その時、牀几に腰をかけて諸兵に指示していたところ、流れ矢が一筋、寺内より飛んで来て蔭山の左の目へ二寸ほど射込んだ。その矢を抜いて捨てたところ、また矢が一つ飛んで来て右の目を射潰された。一度に両目が盲目となったことは、ただ事でないと噂された。
その後、ゆえあってこの太刀は丹羽五郎左衛門の所持となったが、五郎左衛門長秀もまた眼病を患って苦しんだ。つまるところ、この太刀を所持の人は両目に祟りがある、と世の人々が皆噂したため、この太刀を◎熱田大明神(熱田神宮)へ奉納した。すると即座に五郎左衛門の眼病は治ったのであった。これこそまさに景清の太刀ゆえのことであろう。
さて、尾張の◎古渡へ、斎藤方より大垣の城が攻められているとの報せが届いた備後守信秀はさらに援軍を遣わし、同じく十七日、後詰のためとして美濃へ出た。起の川を船で渡り(◎起渡)、川を越えて美濃の地に乱入し、竹ヶ鼻・森部のあたりに火を放ち、◎稲葉山近郊の民家を焼いて、赤鍋村の入口まで(堀久太郎の居所)攻め入った。道三、これに驚き、大垣城攻めを差し置いて、井の口の城に兵を入れた。
信秀がなおも美濃にて合戦をしようと協議していたところ、その頃、尾張◎清須の城には織田彦五郎が在住していた。これは織田大和守入道常祐の跡目であるが、じつはさる九月に討ち死にした因幡守の子で、清須三奉行の棟梁であった。この家老坂井大膳・同甚助・河尻与一郎などという者ども、相談して謀反を起こし、信秀の留守を幸いとして軍兵を催し、同月二十日、信秀の居城の◎古渡へ押し寄せて町口に放火し、敵となった。この注進が届くと、直ちに信秀はまず美濃の戦を止めて尾張へ帰り、これより度々織田彦五郎と戦うこととなり、絶え間なかった。
これによって道三は再び出陣し、ついに織田播磨守を攻め出して大垣の城を受け取り、竹腰氏を入れ置いたのである。
参考
『美濃明細記 巻第十三 茂々久岐根付録』(伊東実臣、元文三年-1738)
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より