小牧山の上にある。『尾陽雜記』『古城志』等には、村の北西にあり、四方に三重堀をめぐらし、西は総構えの堀があると見える。

信長の足掛かり

永禄六年(1563)信長公が清須から移り、しばらく居住した。『祖父物語』に「小牧越」とあるのはこの時の事である。

『參考尾張古城跡記』に引く里人の記録によれば、永禄六年(1563、癸亥)の七月から小牧山を要害として整備し、南に池田勝入(信輝)、辰巳(南東)に丹羽長秀らのほか、諸将の屋敷を置くように仰せ付け、 同九月四日に清須から御移りになった。翌七年八月一日には、小牧山において勢揃いして大軍を率い、岐阜瑞龍寺山へ押し寄せ城を乗っ取り、そこへ移られた。小牧山を廃去したと記す。

また『織田眞紀』によれば、小牧山が築かれ、山麓は川水が通って舟運の便が甚だ高かったため、家臣たちは喜び、遷って間もないうちに土木工事を完了させたという。しかし、これこそが信長公の経略であった。小牧山と一里(約4キロ)ほどの距離にある小口城の士卒は、小牧城が完成して間近に迫るのを恐れ、出城を退いて犬山城を保つこととなったのである。

朝戸あけ

さらに『安土創業録』によれば、尾州小牧山に城を築いた際、信長が京都から連歌師紹巴を呼び、祝儀の連歌百韻を命じた。地元の連歌師である塙茂元・岡田見桃齋・篠木の北野などいう者にも命じ、今回の連歌師等へ褒美として、信長公から二百貫文、家中より百貫文出すと言い渡した。こうして紹巴も尾州に下り、信長は紹巴に対面した。新城の祝儀に発句せよと促すと、紹巴の発句。

朝戸あけの麓は柳櫻かな

信長はこれを聞きなさり、「紹巴は聞き及んだとおり発句は下手で、新城の祝儀に遠路を呼び下したのに言葉もなく【あける】というのは不吉である」と、居長高になって気色を変えた。紹巴はすっかり面目を無くし、その夜のうちに京へ逃げ上ったといわれる。

紹巴の『富士見道記』にその時の日記があるが、作中には桑名から本府(海西郡本部田か)、清須などを経て小牧に至ったことが記されている。しかし、面目を失い夜逃げに立ち退いたほどの事であったためか、小牧で連歌をした事は少しも書き留めていない。京へ帰る振りをして、富士見に東国へ下ったのだろう。また、湖水春流の『續徒然草』によれば、紹巴が朝戸あけの発句を出した際、この句を杉幽林が難じて、「【あけ】の字は不吉である。【朝ぼらけ】と据えかえよ」と言ったという。この幽林は、その道の名人であったいう。

現在、当所の玉林寺に紹巴の碑があるのも、この時の因によるのだろう。なお山の麓の小牧村・間々村・村中村等は当時の城下に属し、士農工商の暮らす地であったという。

家康の陣

永禄七年(1564)九月、美濃の厚見郡稲葉山の城を責め取って移った後、廃城のようになった。
その後、天正十二年(1584)、秀吉公と信雄公(信長次男)が不和となり、長久手の合戦に及んだ時、この古城が家康の御本陣となった。その戦は家康の思いのままに勝利を収め、この上なき吉例の山となった。それゆえ國祖君(尾張藩初代藩主徳川義直)をはじめ、御代々その旧地を深く尊び、幕末頃も山の中に一般の者が入る事を禁じていた。なお、戦の事蹟は忌諱多く、碑文から現在語訳して載せる。


小牧長久手の戦い 小牧山碑から

小牧山は、家康の古戦場である。初め、豊臣秀吉が織田信雄と対立し、天正十二年(1584)三月春、十万の衆を率いて尾州に入り、信雄を撃とうとした。信雄の父・信長の臣はみな秀吉に属していた。信雄は清洲城に在り、家康に援兵を請う。家康は信長との旧交によってこれを許し、手兵八千の将として信雄を援けた。

まず小牧山に拠って防ぎ、陣営は厳整であり、秀吉は前に進めず、退いて楽田に駐屯した。互いに日を虚しくして相対するなか、秀吉は池田勝入に諸軍を監督させ、兵およそ三万で三河岡崎を襲うことを密かに謀った。家康はこれを聞き、酒井忠次・石川數正らを留めて守らせ、四月八日晩に向かった。まず大須賀康高・榊原康政らの衆三千を先鋒として、敵陣の跡を踏んで撃たせる。家康もまた精兵三千を率い、夜密かに信雄と共に小牧山を出て、間道より進軍して長久手に至った。

その時、勝入等は後軍が狼狽している報を聞き、旗を翻す。家康も旌旗を高く陽に揚げ、不意に出る。勝入らは慌てて列を作り、森長可と共に力を尽くして督戦する。しかし家康の兵は気を奮い立たせ、その鋭を挫き剛を折り、連勝する。ついに長可は士卒を指揮し、その右軍を衝いて軍を後方へ出そうとした。

家康の兵はこの機に競って鳥銃を放つ。その勢い雨雹の如く、にわかに長可を撃ち抜けば、馬から墜ちて倒れ、兵は崩れる。勝入の軍は利あらず、衆は大いに潰れて父子の首は授け、諸軍は逃げ走った。この一戦で斬った首は一万余り。家康は瞬く間に軍勢を整え、信雄と共に小幡に入り、小牧山へ凱旋した。翌朝、秀吉は両将が軍を出したことに驚き、急ぎ龍泉寺に至ったが、勝入らは既に敗れ去っていた。秀吉は大いに怒って小幡を攻めようとしたものの、衆は辟易して背いて従うものはなかった。秀吉は自ら威を示し、明朝に撃って終わらせんと息巻いたが、既に家康の行動を聞き、手を打って「文武兼備之良将である」と嘆息した。秀吉は楽田に戻り、ついに兵を引いて美濃に退く。

伏して思うに、古より天命を受け大業を創る君主の大義大勇は、必ず天下に称せられるものである。漢の光武帝が昆陽を渡り百万の王尉を殺し、唐の太宗が栢壁に陣を敷き、精鋭の宋金剛を追撃して破る。家康の事績もまたこれに類する。秀吉は滅多に世に出ぬ勇将であり、その鱗を攀(よ)じる者(秀吉に従う者)は熊の如き猛者ぞろいであった。しかし家康は草芥のようにみなした。よって少兵をもって信雄の危難を援け、勝入等を一戦で倒して秀吉の大軍を退却させたのである。その大義大勇は遠く漢や唐の英邁の君主にまさり、天下はほとんど天授であって人力に非ずと称される。のちに命を受けて業を創めるに及び、極めて寛大であり、ここに万有千歳の固い基盤が切り拓かれたのである。聖なる子孫は連綿として連なり、鱗趾の化(麒麟の足跡のような仁徳による強化)を継承している。ああなんと神々しいことか。

今、尾張の藩主の中納言従三位源綱誠は、家康の曾孫である。政務の合間に、しばしば小牧山を名古屋城の北三里(約12km)に望む。思うに我が尾張の勝景の地であり、家康のたいへんな功烈への思いが止まらない。今年、元禄十一稔戊寅(1698)冬十一月。碑をこの地に建て、その事を概略して、万代に伝える。その継述の志、なんと偉大ではないか。詩に「(周の成王は)祖父の文王の道に大いに従い、曾孫これを篤くする」とあるのは、まさに太守のことを指しているのではないか。私(臣健)は、拝首して厳命を承り、これを記す。

魏然名山。上直下豐。蓬島揚波。膽吹攀空。
維邦藩屏。蜀險秦潼。赳々武夫。極々英雄。
威起疾雷。氣吐長虹。良平失策。晋楚折衝。
三軍手裡。百萬胸中。勝入授首。秀吉郤衆。
昆陽推勇。栢壁讓功。仁懷犲虎。義制咬龍。
惟非人力。乃代天工。歴世具瞻。于秦于嵩。
殷周垂統。魯衞守封。親賢樂利。遺澤流風。
神君之徳。帝出于震。大勳什一。鐫傳無究。

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魏然と聳える名山。上は真っ直ぐで下は豊かに広がる。蓬島(伊勢湾の島々)の波を揚げ、伊吹山が空に伸びる。|ここは国の藩屏(要塞)である。蜀の険道、秦の潼関。勇ましい武士、卓越した英雄。 威は疾雷を起こし、気は長虹を吐く。良平(中国の軍師張良・陳平)は策を失い。晋楚(春秋時代の強国晋・楚)の突撃を挫く。|三軍は手の中に、百万胸中に。勝入は首を差出し、秀吉は軍を退く。|後漢の光武帝が勝った昆陽の戦いもその勇猛さに及ばず、唐の太宗の栢壁の戦いも功を譲る。仁は山犬や虎をなつかせ、義は咬龍(野心家)を制す。|これは人力でなく、天工が家康を通じて現れた。歴代王朝が、秦山や嵩山をつぶさに見るように。|殷や周が統を保ち、魯・衞がこの封土を守る。賢に親み利を楽しみ。先祖の恩恵と気風が流れる。|家康の徳が、東から昇り照らす。大勳の十分の一、ここに刻み永遠に伝える。

元祿十一年戊寅冬十一月日  尾陽詞臣并河子健百拜記


陸軍特別大演習

昭和二年、濃尾平野に展開した陸軍特別大演習では、小牧山に御野立場が設けられ、小牧中学校が講評所に当てられた。同日、尾張徳川家は史蹟小牧山の管理を小牧町にまかせることにしたが、昭和五年に同町に寄付した。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
小牧市史編集委員会『小牧市史 本文編』(小牧市、昭和五十二年)223頁

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