羽黒村にある。梶原景季がこの地に住んでいたが、愛馬の磨墨が死んだのち、ここに埋めて塚とした。梅の樹を植ゑてしるしとしたのは、源太(景季)が箙(えびら:矢筒)に梅の譽を表した為であるという。しかしながら後から加えた説である。当所に信長公の麾下梶原源左衞門・同松千代などの城跡があるので、 それらを誤って伝えたものではないだろうか。

磨墨は郡上で育った真っ黒な名馬で、源頼朝が梶原氏に与えた。梶原氏が滅亡し、梶原景時の孫の豊丸(後の景季)が乳母お隅の方の案内で6家臣とともに羽黒に逃れて来たときに、一緒に連れて来た。

するすみの逸話 宇治川の先陣

寿永二年(1183)、木曽義仲攻撃のため、源義経・範頼が頼朝の命令で上洛した。義仲方は宇治、瀬田の橋桁を引きはずし、河底には乱杭を打って大綱を張り逆茂木を繋いで、橋を流しかけた。

『平家物語』巻第九「宇治川の先陣」(山東町史編さん委員会『山東町史』(山東町、平成三年)216、217頁)
時は一月二十日のことなれば、比良の高嶺・志賀の山の残雪も消え、谷々の氷がうちとけて川の水かさがましていた。夜はすでにほのぼのと明けかけていたが、河霧が深く立ち込めていた。ここに大将軍源義経は川の端に進み出て、人々の心を推し測ろうとしたのか、「いかんせん、淀・いもあらいへやまはるべき、水のおち足をやまつべき」と言った。
若冠二十一歳の畠山重忠が進み出て、「鎌倉にてよくよく此河の御沙汰は候しぞかし、しろしめさぬ海河の俄にできても候はばこそ、此河は近江の水海の末なればまつとも水ひまじ、橋をば又誰かわたいてまいらすべき、治承の合戦に、足利又太郎忠綱は鬼神でわたしけるか、重忠瀬ぶみ仕らん」と、宇治川に足を入れようとした。
と、その時、二騎の騎馬武者が水音をたてながら渡河を決行した。一騎は名馬「するすみ」にまたがる梶原源太景季、もう一騎は名馬「いけずき」の佐々木四郎高綱であった。
この両者の先陣争いに勝利したのは、佐々木高綱であった。高綱は対岸の敵陣に上陸すると、「宇多天皇より九代の後胤(こういん)、佐々木三郎秀義は四男、佐々木四郎高綱、宇治河の先陣ぞや、われとおもわん人々は高綱にくめや」と大音声をあげたという。最終的に高綱に続いた源義経軍が、源義仲を追討し京都を制圧した。
するすみは勇敢にも氾濫する河に乗り込むも、競争には負けてしまった。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

犬山市羽黒摺墨
種別