文明年間(1469ー1486年)、土田氏が築く。弘治2年(1556年)に土田源太夫が明智城で戦死し、親重・親正が城主となった。彼らは丹羽郡小折城の生駒氏の養子である。

天正2年(1574年)に親正は織田信長に仕えるため、土田城を開城し退去した。その後、親正は秀吉に仕え、各地を転戦した。天正15年(1587年)には讃岐丸亀城主となった。


城下の東側に可児川が流れ、西と北は山座川と支流が、南は山並みが続く天然の要害である。西側には東山道と川を挟んで鳩吹山がそびえる。


城主や家臣たちの屋敷は北側の大脇にあった。城主の屋敷は、可児川と木曾川が合流する崖の上に位置していた。
土田城は「詰城」としての機能を持つ山城で、戦いが起こると居館の背後にあるこの城に立てこもる。


洞穴がある。武器庫!?


当地は織田信長の母・土田御前の出生地との説がある。土田御前は織田信秀の継室で信長と信勝の生母であり、土田氏の出生地は可児郡土田と清州の土田の二つの説がある。土田御前の叔母も織田信定(信長の祖父)に嫁いでおり、織田家(弾正忠系統)と土田氏のつながりは古くから深いものだったのだろう。

参考:
土田のあれこれ
武将列伝番外編・女性列伝 土田御前

可児市土田
種別