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河田村から木曽川を越えて、美濃の新加納に至る船渡で、北方渡船(笠松町)と内田渡船(犬山市)の中間にあり、美濃と尾張を結ぶ中街道の道筋にあたる。川幅五八間。慶長五年(1600)八月二十二日、東軍の兵が岐阜の城を攻め撃ち勝利を得たとき、ここを渡ったという。

明治一五年の渡し賃は、一人、人力車一台、馬車荷車一台・牛・馬一頭、かご長持一荷で三厘。両掛一荷分持で二厘。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで、東軍の将、池田輝政が先鋒となり浅野幸長、山内一豊、柳直盛が率いる1万8千余の兵がこの渡船を渡り、西軍の岐阜城兵の前進陣地を突破して岐阜城攻めに向かった。

河田渡船を行き交う人々

江戸時代、一般の川船に混ざって、起船役所から伝達されてくるお触状に基づいて、お役銀付船という御用勤めに従事する多数の川船がつなぎとめられていた。享保12年(1727)に一宮村で三八市が開かれるようになると、各務原周辺の人々がこの渡船を頻繁に利用するようになり、尾西地方の織物産業や万金膏で有名な浅井の接骨医の繁盛も利用を活発化させた。明治初期には、人力車や馬車が頻繁に往来した。

河田島村の川庄屋が嘉永2年(1849)から慶応4年(1868)に記した記録には、文久元年(1861)に皇女和宮が江戸へ下向した際の船と人足の御用、宇治茶のお茶壺通行、尾張大納言・松平安芸守など諸大名や公家の往来に従事したことが記されている。御用勤めの労賃(河田湊からの片道分)は以下の通りである。 小網島村(現小網町):40文
牛子村(現松倉町):25文
黒岩村(現一宮市):32文
大野村(現一宮市):32文
米野村(現笠松町):32文
円城寺村(現笠松町):68文
上中屋村(現各務原市):60文
宮田村(現江南市):40文

万金膏は、宋代の「和剤局方」をルーツとする尾張の名物薬で、傷や肩こりに効く黒い貼り薬として、約200年にわたり製造販売された。尾張藩主徳川斉朝の落馬の傷を治し、力士五代目境川浪右エ門の怪我を完治させたと伝えられる。現在は量産の合成湿布薬に役割を譲り販売されていない。(大日本衛生資料室 No098 浅井万金膏

渡船の廃止

昭和5年(1930)には、木製の河田橋が建設され、渡船は廃止した。しかし、大洪水時には橋が流され、臨時の渡船として復活することもあった。昭和33年(1958年)に永久橋が完成し、河田渡船の歴史は終わった。

参考:
『尾張名所圖會 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
『くさの井史』
川島町文化財保護審議会の看板
『ふるさと川島の 主な史跡と遺跡 町の保護樹 民俗資料 今に残る伝統行事』(岐阜県羽島郡川島町、昭和58年)5頁

各務原市川島松原町
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