この新溝という地は、まず『延喜兵部式』(延長5年-927-完成)尾張國驛馬の條に、「馬津・新溝両村各十匹」と見える三驛の一驛で、『神鳳抄』また『類聚大補任』にも見えたが、貞治(1362-1368)の頃には、はやくもこの地名は廃れたと思われ、『國帳』熱田本に新屋と誤り、元亀(1570-1573)の『國府宮本』には「新居」と書かれてニヒヤと仮名が付いているのも誤りである。
当所に證法寺といって、一向宗東派の寺がある。この寺を本山にて、「尾張國新溝の證法寺」といい倣い、今に至るまでこのようにいって、岩倉という地名をいう事は無かった。これはこの岩倉の旧名が新溝だった明らかな証明である。さらに考えると「岩倉」という名は、織田伊勢守が当村を領して、城地となった頃にこのように改めたのかもしれない。それだけでなく新溝は伊勢神宮の神領といい古い場所で、当所に神明社が多いのも当然のことである。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)