外町にある。臨済宗、京都妙心寺の末寺。山号は了義山。文明八年(1476)犬山城主織田大和守敏定、栢庭和尚を招いて建立し、桃隱和尚を開山とする。栢庭派の本寺である。本庵であるため、近国の同派の寺々が輪番で勤めていたが、天正十二年(1584)美濃國可兒郡石原村の真禅寺の説道和尚が輪番の時、長久手の戦いが起こり、兼山の森武藏守が説道の檀越(庇護者)だったので、羽黒・青塚・茶臼山の砦を築こうとして、説道に頼み、当寺及び塔頭五院の堂塔を壊してかの砦に運び廃跡となった。塔頭三庵のみ残り僅かに続いていたが、同十九年(1591)、説道は美濃の帷子村常楽寺を壊して移し再興した。その頃の古證文等が多くある。

本尊は正觀音、湛慶作。楠正成の年持仏で秘仏となった。塔頭は慶雲院・龍雲院。

赤門の前には馬頭観音、兼松所助(犬山焼の陶工)の墓、村瀬太乙(敬道館教授)の墓がある。 以前は鐘があったが、戦時の供出で無くなってしまった。延享3年(1746)の鋳造で、数千の文字で郷土史が書いてあり、小牧山の役も記されてあった。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

犬山市犬山南古券
種別