新居村にある。臨済宗、沓掛村定光寺の末寺。山号は輝本山。

永禄元戊午年(1558)、里人が建立して昌巖繁首座を住持とする。境内は山懐(山に囲まれた)で、勝景の地である。本尊の釋迦の木像は霊仏で、むかし貧しい女が夏の蚊が多いことに悩み、この仏に祈ったところ、その家では蚊が出なくなったことがいい伝わる。

元禄の頃(1688-1704)、僧止水が当寺に住んで以来、寺號もたいへん聞こえるようになった。そもそも止水は京の出身で、その姓は詳らかでない。俗塵を厭い、家を出て、嵯峨の壽寧寺に入って薙髮した。越(ベトナム)の大安家山禅師に師事して、終に単伝の旨(禅の正統な法脈)を極め、人のすゝめによって大藍に住み、洛(京都)の正法山に転じようと向かう道すがら、ある船中で、所持品を賊に奪われて、

苦しみの海をわたれば墨染の袖にもかゝる沖津白浪

と詠んで登洛を果さず。再び寺にも帰る事も叶わず、終に当寺に来て、草庵と建てて住む。

もともと和歌を好み、廣澤の兵好法師を師とし、玄妙(深い境地)に至る。この里はむかしからホトトギスが鳴く事がなく、木こりや草を刈る山の人も聞かなかったが、法師が毎年に言の葉の数を尽くしていたためか、ある年五月の頃、あまた鳴いたという。その時詠んだ歌は、多く『朽葉集』に出ている。こうして享保元酉年(1716)二月に

いとひても此世はあさし死出の山こえて幾重の奧を分け見ん
(:厭いてもこの世の苦しみはまだ浅い、これから死出の山をこえて幾重に重なる奥地へ分け入って真理を見よう

と辞世の一首を残し、終に亡くなる。当寺に碑があって、『集雲止水道者。享保丙申二月十二日』と見える。

寺宝に止水の筆多くある。郭公の和歌一幅・辞世和歌一幅・朽葉集一巻・新居八景短冊八枚・歌学の書二巻・九相畫賛そのほか雑記等ある。また止水法師の愛した柳井というのは、今も境内にあって清泉である。寶永三年(1706)戊八月書いた『柳井の記』一巻がある。その文は長いので略す。末に

住みすてゝ我ぞなからん後もなほ柳井の清水世にはにごらじ 止々齋老隱如得
(:我が亡くなった後もなお、柳井の清水は世の濁りに染まらない

と見える。止々齋老隱如得は止水の別號である。

参考:『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

尾張旭市新居町山の田3219番地
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