鳳慈山大威徳寺と号す。建久年間(1190-98)に源頼朝の願旨により文覚(又は永雅)が創建した。本堂・講堂・三重塔など七堂伽藍をはじめ12の宿坊を有する天台宗の大道場として、法燈は約380年にわたり山上で輝いていた。(『増田郡誌』『加子母村誌』)
しかし元亀三年(1572)三月、苗木城主・遠山直廉が飛騨へ侵攻した際、飛騨の荻原城主・三木治郎左衛門尉が当寺に拠って戦ったため、多くの伽藍が兵火で焼失した。さらに天正十三年(1585)十一月晦日の大地震によって崩壊し、再建の力もなく僧侶は離散した。宿坊の一つ多聞坊の僧・慶俊は天台宗の大伽藍であった郡上長滝寺の塔坊阿名院へ移り、大威徳寺の様子を院所蔵の経巻奥書に書き残している。
濃・飛・信の三国の境の三国山(1611m)の南西に伸びる支脈の中腹の台地に建てられていた。本堂の東後方には鎮守府と称する細い尾根が続き、北側には沼沢地が広がって人馬の通行を阻んでいた。東・南・西の三方は峻険な絶壁に隔てられ、さらに数段の土塁が寺院を囲み、山城的な構えを備えている。
建設の由緒は不明である。しかし、かつて神土邦好家に所蔵されていた大威徳寺旧蔵の大般若経600巻の奥書には平家残党とも推測される平姓の施主名が記されてある。
大威徳寺旧蔵大般若経奥書の写し
応永五年十二月甘九月 信心大施主 見勝禅尼
応永六年三月一日 願主 平宗室
平宗家
応永六年三月二十一日 信心施主 平貞宗
応永八年正月念一日 施主 沙弥道達
大般若経600巻の由来については、旧越原村庄屋の古文書『威徳寺之由来』(編年代不詳)名古屋女子大学所蔵に記されている・「応永元年、安江左衛門尉政氏の舅忠広(源姓)発して、亡人菩提且その子孫繫栄のため、大般若経六百軸書写、大般若経に記す処の姓名は、沙弥道達大禅定門、室宝達見勝大禅定尼、その外亡人平貞宗・平宗室・平宗家の姓名を記し、応永八年までに写し終え、則小郷大威徳寺へ修飾す。天文年中(元亀説も)兵火にて焼失すれども経蔵は相残り、七堂伽藍は退転す。拠って右大般若経六百軸ならびに釈迦十六善神尊像一軸・古南京の神酒瓶子一対は施主神土邑邦好家へ帰りたれば、経堂を建立してこれを秘蔵す」と述べている。
元神土村常楽寺・元大沢村(虫に番)龍寺・元吉田村大蔵寺はこの大威徳寺の末寺であった。(旧『東白川村誌』大正三年発刊)
釈迦十六善神尊像図(神土邦好家所蔵)
大般若経転読会を修する際、その本尊として使用された画像(掛物)で、釈迦三尊を囲んで大般若経を守護する護法善神十六体が描かれている。作者は東福寺の画僧明兆(1352-1431)と伝えられ、南北朝後期の作品である。本尊は金地金泥で描かれており、これを囲む護法善神はそれぞれ赤・青・褐色などの彩色が施されているが、修法の際の燻煙でくすぶったためか、全体が褐色味を帯び落ち着いた色調が見られる。
参考:東白川村誌編纂委員会『新修東白川村誌 通史編』(岐阜県加茂郡東白川村、昭和57年)113-116頁