尾張の国のうち、北の極みにある里で、その地はたいへん広く、北の方の木曽川に沿って、堂々たる大城がそびえ、その郭の東南西に、縦横の町々が建ち、士農工商の家々が軒をならべ、神社仏閣の屋根が連なる。その外側に中切・大本町・内田・余坂・木の下の五村があって、市街を包み、総じて犬山とよぶ。

足利家の時(室町時代)、当國は斯波武衞の家領だったといっても、この犬山は妙法院法親王家、荘園として領した。康正二年(1456)造内裏段錢并國役引付に、妙法院御門跡領尾州一橘余段錢とあるのもこの地の事である。この宮の御領知の由縁を頼って、南朝の宗良親王も忍んでこの地に至ったのである。 詳しくは『信濃宮傳』に譲ってここでは省く。


『李花集』

しのびて美濃國までまかり登り侍りしかども、都へもはゞかりおほく、また跡へもかなはぬ事なん侍りて、犬山といひし所より、なるみの浦ちかく出で侍りしに、山路には引きかへて、 海づらの住居もめづらしく覺え侍りしかば、
山路より いそべの里にけふは來て うらめづらしき 旅ごろもかな
宗良親王

この歌は『新葉集』にも選ばれて、その詞書に、『信濃より木曾路をはる〴〵とのぼりけるに、犬山といふところより、なるみの浦へ出で侍りけるとておもひつゞけゝる。よみ人しらず』と見える。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

犬山市犬山南古券166番地