猿啄城

信長勝利で美濃に衝撃
創築と謀叛

享禄三年(1530)に美濃守護の土岐氏一族、田原左衛門が創築した。しかし、天文十六年(1547)、一族の多治見修理が、田原左衛門が祖母の住む犬山の大泉寺に赴いた留守を突いて謀叛を起こし、城主となった。

信長の中濃攻略

永禄八年(1565)、信長は犬山城落城を皮切りに、東濃計略を進めた。対岸の伊木山に砦を築き、木下藤吉郎秀吉によって鵜沼城主・大沢次郎左衛門正重を降した。その後、多治見修理太夫の居城である猿啄城を攻撃した。

織田の先鋒・河尻鎮吉は、山の南の急坂から攻め上がり、他の一隊は尾根づたいに迫ったが、本城へは容易に進めなかった。しかし、もとより小勢であった修理太夫はやがて山を越えて逃亡し落城した。一説には、山城の欠陥である飲料水の欠乏が要因であったともいわれる。

信長は功を挙げた河尻鎮吉に、勝山ほか十二ヶ村を与え、戦勝を祝して当地を猿啄から勝山へと改めた。なお、河尻鎮吉の墓は、木曽川を上流へいった酒倉一色の長蔵寺にある。

その意味

当時、東濃の諸将はほぼ斎藤方に属し、周辺には関城堂洞城(富加)、米田城(川辺)、久々利城(可児)などがあった。この中でおよそ中心にある加治田城(富加)の城主・佐藤紀伊守忠能は、表向き斎藤方にいたが、急速に勢力を拡大する織田方に内通していた。そして正面の堂洞城主・岸勘解由は織田を拒絶していた。永禄八年(1565)八月、信長は攻撃し、落城させる。斎藤方の関城主・長井隼人佐道利は、織田軍が小牧山城に引き揚げる事を知り加治田城を攻撃するも、隊の背後から斎藤新五郎が急襲し混乱に陥り、関城へ敗走。その後、道利は北陸に逃れ、朝倉氏の保護を受けたといわれる。

この一連の戦いにより、斎藤方の武田との東方協力路線は完全に壊滅した。

参考
『坂祝村史』(坂祝村教育委員会、昭和三十年)51頁