享禄三年(1530)に土岐氏一族・田原左衛門が創築した。天文一六年、一族の多治見修理が田原左衛門が祖母の住む犬山大泉寺に赴いた時に謀叛を起こして城主となる。

やがて永禄八年に織田信長によって落城する。

信長は犬山城落城を皮切りに東濃計略を進めていった。対岸の伊木山に砦を築き、木下藤吉郎秀吉によって鵜沼城主大沢次郎左衛門正重を降した。その後、多治見修理太夫の居城である猿啄城を攻撃した。

織田の先鋒河尻鎮吉は山の南の急坂から、他の一隊は尾根から向かったが、本城へ容易に進めなかった。しかし勢力が小さい修理太夫はやがて山越に逃亡し落城した。一説には山城の欠陥として飲料水が欠乏し落城したともいわれる。信長は河尻鎮吉に、勝山外十二ヶ村を与え、戦勝を祝して猿啄を「勝山」と改めた。河尻鎮吉の墓は木曾川を上流へいった酒倉一色の長蔵寺にある。

当時、東濃の諸将はほぼ斎藤方に属し、周辺には関城、堂洞城(富加)、米田城(川辺)、久々利城(可児)などがあった。関城と堂洞城の中間の加治田城(富加)城主佐藤紀伊守忠能は、表向き斎藤方にいたが、急速に増大する織田方に内通していた。堂洞城主岸信周は織田を拒絶し、永禄8年8月織田軍は落城させる。関城主長井隼人佐道利は織田軍が小牧城に引き揚げる事を知り加治田城を攻撃するも、隊の背後から新五長竜が急襲し混乱に陥り、関城へ敗走。やがて道利は北陸に逃れ、朝倉氏の保護を受けたと伝えられる。

斎藤方の東方協力路線は完全に壊滅した。信長の勝利に因んで、この地を猿啄から勝山と改めた。

参考
『坂祝村史』(坂祝村教育委員会、昭和三十年)51頁

加茂郡坂祝町勝山
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