名古屋より木曽路へ出る馬継(宿駅)で、善師野(現犬山市)、土田(現可児市)を経て、中山道伏見宿(現御嵩町)へと通じている。宿場の町並は長く、農家や商家が軒を連ね、休憩や宿泊のための旅籠も多い。

町の大移動

『正事記』によると、昔は小牧山の南の麓(今は元小牧という地である)にあったが、國祖君(尾張藩初代藩主徳川義直)が山から東の原へ移し、街道も付け替えて並松を植えさせ、小牧宿となったという。 また『鹽尻』には、寛文七年(1667)丁未に小牧驛での市が許されたとみえる。

元和九年(1623)、尾張藩初代藩主・徳川義直は名古屋と木曽を結ぶ交通路を整備するため、中山道から名古屋へ至る街道と宿駅の整備を命じた。これは御付家老・成瀬正成を通じて江崎善左衛門が担当した。善左衛門は、関ヶ原の戦い後の慶長五年(1600)に尾張へ入封した松平忠吉に仕え、清須で人馬継立てや御墨印持伝(朱印状による伝馬の管理など)などを勤め、忠吉の死後は小牧で隠居していた。この街道は寛永十一年(1634)頃にはほぼ完成し、寛永十三年にはこの街道から中山道を経由して江戸参勤交代が行われた。

街道の整備にともない、永禄六年(1563)頃に織田信長の小牧山築城とともに形成された城下町は移転することとなった。藩は移転を円滑に進めるため、村民に一両から三両の引越料を支給し、責任者の江崎善左衛門には二十両が与えられた。寛永五年(1628)には町並ができ上がり、十人組などの町内組織も整えられた。のちの寛文年間(1661-72)には家数255軒、人口1488に達している。

往時の宿場町

宝暦年間(1751-1764)に作成された『小牧宿絵図』は、当時の宿場の姿を伝える。そこには 328軒 の家々が記され、その大半を百姓(227軒)が占め、商人は56軒、職人は3軒であった。また、旅人を迎えるものとしては茶屋餅や14軒、やど屋7軒、酒や3軒、こんや2軒、かじや2軒が並んでいた。このほか、寺院は4ヵ寺、寺隠居2軒、明家(空き家)8軒も記録されている。商人56軒の内訳を見ると、古手商人10、雑穀商人9、小間商人8、買出人8、油屋・菓子屋が各3、豆腐屋・うどん屋・質屋が各2、米屋・魚屋・薬種商人・材木商人・味噌商人が各1と、多彩な商いが営まれていた。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻三』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
小牧市史編集委員会『小牧市史 本文編』(小牧市、昭和五十二年)171-174、187、188頁

小牧市小牧4丁目567番地
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