黒田村にある。日蓮宗、甲斐國身延山久遠寺の末寺。明應九年(1500、壬子)、日妙上人の創建である。山号は妙王山。

寺宝 日朝上人修造の曼陀羅一軸、また日蓮上人の書、豊臣秀頼公の知歌二首、その他品々あり。豊臣秀頼は秀吉三男で、梵鐘の銘が家康と対立するきっかけとなった。元禄年中(1688-1704)僧日相当寺に住む。この僧は博識で著述多く、中にも法華経の校本は世に流布して、一宗の緇白(僧俗の上位者)が大いに信用した。また和歌を嗜む。この僧の伝は『佛祖統記』に詳しいのでここでは略す。

山内盛豊・十郎父子の墓

大永年間、山内久豊が丹波から尾張に来るが間もなく没し、その子・盛豊(明応九年(1500)生、幼名猪助)が後を継いだ。盛豊は岩倉城主・織田信安に仕え、黒田城を預けられた。永禄元年(1558)の浮野合戦で勇戦したが(『新撰信長記』『総見記』)、翌永禄二年(1559)乙末に岩倉城にて信長の兵と戦い討たれた。法蓮寺に盛豊・十郎父子の墓がある。なお、一豊の母は羽黒城主梶原氏の娘であったいわれる。

山内一豊出生之碑

昭和三十七年に建立された。また、大正六年黒田小学校の一隅に
黒田城址 愛知県 山内一豊 此ノ城ニ生ル
という碑もある。

一豊の出生地は黒田説(『一豊公記』の附属史料)と、岩倉説(岩倉の人とする『張州府志』『尾張志』を受け岩倉誕生説をとる『愛知県傑人伝』『愛知県史要』)とあり、鍔迫り合いは激しい。『岩倉町史』は岩倉で盛豊が戦死したことは明らかだが一豊誕生地として断定することは早計であると慎重な立場である。なお、山内家顧問・沼田頼輔氏の研究では岩倉説をとる。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
岩倉市史編集委員会『岩倉町史 上巻』(岩倉市、昭和六〇年)430-432、434頁

一宮市木曽川町黒田勘治西60番地
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