福束城跡

丸毛氏

安八郡。

秀吉頃、九茂三郎兵衛安職(のち道和入道と称す、父丸毛兵庫頭)が、◎大墳より移り二万石で領した。三郎兵衞は『明細記』に安職或云兼頼、『關ケ原合戰圖志』に親長などと書かれている。

慶長五年(1600)八月関ケ原の戦いの前哨戦で、市橋、徳永、横井等が攻め取った。のち市橋下総守が城番となった。

戦記

福束の城

応永二十一年(1414、午)九月、美濃の守護・土岐左京大夫頼益の命により、福束蔵人十郎益行が初めて当城を築き、ここに住んで南伊勢への足がかりとした。

その後、正長元年(1428、申)より、丸毛中務少輔光慶が住んだ。光慶は土岐大膳大夫頼康の従弟にあたる明智五郎頼高の子である(丸毛氏の養子という)。続いて、その子・丸毛三郎左衛門光益が城主となり、その子を河内守光長という。文明二年(1470、寅)八月、同郡脇田の里へ移った。のちに光長の子・三郎兵衛兼行は、再び福束に帰り住み、その子・兼定、三郎兵衛光兼(後に兵庫、晩年に河内守と改める)と続いた。

光兼は斎藤龍興に属して福束の城に住んでいたが、永禄七年(1564)の秋、信長によって龍興は国を奪われ、◎稲葉山の城を明け渡して落ち延びて行った。斎藤家譜代で恩顧のある家臣らは主人龍興を守護して共に退去し、外様や配下の諸将は思い思いに家名を保とうと、ことごとく織田家に従った。稲葉・氏家・不破・安藤の四人衆は、先年より龍興を捨てて信長に帰伏し、またその後には、遠藤左馬助・遠山久兵衛・原彦次郎・金森五郎八・加藤権兵衛・伊東彦兵衛・徳山又兵衛・西尾小兵衛・竹中半兵衛らも降伏した。龍興が退去するに及ぶと、丸毛光兼・井戸斎助頼重らも信長に従った。信長は降参を許し、丸毛には、これまでの居城の福束城を一旦改城するよう命じ、同郡◎今尾の城を与えた。これによって、永禄七年(1564)の秋九月より、丸毛は◎今尾の城に移った。

石田方への加担

十年が過ぎ、信長公の御生害(本能寺の変)の後は、丸毛は羽柴秀吉に従い、天正十一年(1583、未)の春より再び福束に帰った。その跡・◎今尾の城には、市橋下総守長勝が入った。この市橋という者は藤原氏で、市橋長利の子であり、池田郡市橋村の出身である。文禄二年(1593、癸巳)二月三日、丸毛光兼が没す、六十二歳、法名善孝。その子・三郎兵衛兼利は太閤秀吉に仕え、引き続き福束に住んだ。

やがて慶長五年(1600、庚子)の関ヶ原の合戦に際し、丸毛兼利は石田三成の誘いに応じ、福束に立てこもった。福島左衛門大夫正則の配下で尾張赤目の住人・横井伊織は、丸毛とは長年の知己であったため福束にやって来て、「早く石田の味方を離れ、関東(徳川家康)に従順せられ然るべし」と勧めた。けれども兼利は承知せず、遮って敵対の姿勢を示したのである。

加知川の夜火

これによって、横井もやむを得ず、関東(徳川方)の命に応じてこれを攻めることとなった。八月十六日、今尾の城主・市橋下総守長勝、同じく石津郡高須の城主・徳永法印昌寿、横井伊織、同孫左衛門、同作左衛門らが軍勢を率いて、福束の東の加知村の川を船で渡り攻め寄せた。丸毛は少しも恐れず、川端に出向いて大いに戦った。この時、◎大垣の城主・伊藤彦兵衛尉、不破郡◎長松の城主・武光式部少輔棟忠、ならびに石田方からの加勢である前野兵庫頭・高野越中守・武藤右京・雑賀内膳らが、時を移さず福束に馳せ着いて三千余騎となり丸毛を助け、大藪村と大榑村との間に陣を取って、大川を隔てて合戦した。

しかし、三町(約330メートル)ほどの大川を隔てていたため、勝負は決しなかった。市橋下総守は思慮を巡らし、家来の金森平左衛門・竹田四郎左衛門に命を下し、十六日の夜半に密かに川を渡らせ、敵が陣取っていた所の後方にあたる目蓮房村と愉役村へ忍び込ませた。火を放ち、裏側を切り、合図を違えず攻めかかった。これによって、たちまち丸毛方は打ち負けて大いに敗走し、援兵の伊藤や武光らはここを捨て◎大垣の城へ逃げ帰った。そうした間に、丸毛兼利も城を持ちこたえられず福束を捨て、同じく◎大垣へ逃げ入った。したがって、市橋はただちに城を乗っ取り、あっという間に入れ替わって入城した。

関ヶ原の合戦が終わった後、当城は破却を命じられ、以後は城主もなく断絶した。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)27頁
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より

安八郡輪之内町福束928番地1
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