厚見郡。明応(1592-1501)頃の記に岐阜の地名がある。古くは加納は沓井、吉田といい、岐阜は今泉、忠節、井ノ口といったが、信長が当城に移ったのち、沓井と吉田を合わせて「加納」、忠節、今泉、井ノ口、宗田を合わせて「岐阜」と称した。

厚見郡の古城

鎌倉初期、建仁(1201-1204)の頃に二階堂山城守藤原行政がここに居城した。その子・佐藤伊賀守朝光が城を継いだが建保三年(1215)に鎌倉で没し、朝光の次男でのちに式部亟となり承久の乱(1221)の頃には鎌倉政所執事を務めた稲葉二郎左衛門光宗、その弟・稲葉三郎左衛門光資らが元仁年間(1224-1225)に居城した。さらに正元年間(1259-1260)には二階堂出羽守行藤がしばらくここに居城している。乾元元年(1302)に没す。

齋藤三代

室町期の応永年間(1394-1428)には斎藤帯刀左衛門利永(宗輔)が拠っていたが、文安二年(1445)に上加納へ移り、途絶えた。斎藤新四郎利良(法号持エ院妙全)と、 居住地を長井洞(現在の小熊本願寺)とした長井藤左衛門長弘がいたが、享禄二年(1525)正月十三日、逆臣斎藤山城守秀龍(この時は西村勘九郎といった、後の齋藤道三)によって殺害された。

秀龍は、天文八年(1539)に稲葉山城を築いて居城したのち、天文十一年(1542)に土岐頼芸の居城である革手を攻め、頼芸が尾州へ退かせ美濃を押領した。天文の末年(1555)、隠居して鷺山城へ移り、息子の一色左京大夫義龍(はじめ斎藤と称す)が後を継いで稲葉山城に在城し、永禄四年(1561)に没した。秀龍は弘治二年(1556)に戦死した。のち、斎藤右兵衛大夫龍興が継いで美濃守護となり稲葉山に在城した。しかし永禄七年(1564)二月六日、竹中重虎(重治)が舅の安藤守就と謀って、斉藤道三を継いだ子龍興を追い出し稲葉山城を奪取した。重虎は半年後旧主に返し隠遁した。

美濃奪取を狙う織田信長は、永禄九年(1566)八月、葉栗郡河野島より美濃に侵攻して斉藤方と対陣するも、風雨で木曽川が増水したため閏八月八日に多くの犠牲を出して撤退した。翌永禄十年(1567)八月一日、稲葉良通・氏家直元・安藤守就の西美濃三人衆の内応を得て、信長は一挙に美濃への総攻撃を開始した。信長勢は小牧山城から兵を出し、端竜寺山より稲葉山城を攻め立て、木下藤吉郎勢は墨俣城より三十余艘に分乗して長良川を昇り稲葉山水手谷道から突入した。斎藤竜興は幼少で部下の諸将は離叛し、八月十五日についに落城した。龍興は長良川を下り伊勢長島まで退き、信長は追って長島、北伊勢まで進撃した。こうして斎藤三代は20年で滅んだ。

織田三代

永禄七年(1564)九月中旬に尾州清須から岐阜へ移った織田上総介信長(永禄十一年(1568)に弾正忠に任ず)は、池田輝政に命じて稲葉山に天守櫓を築かせ、総堀を構えて山下の屋敷を造営した。信長は天正四年(1576)二月に江州安土城を築いて移るまで、十三年間在城。その後、子の織田城介信忠(岐阜中将)が、同十年(1582)まで稲葉山に七年間在城したが、天正十年(1582)六月二日、父子ともに京都で明智によって殺害された。

稲葉山で生まれた信忠の子の三法師(のち岐阜中納言秀信と称す)は安土に移された。天正十一年(一五八三年)正月に秀吉と安土で対面したことが『太閤記』に見える。また『三河後風土記』には、天正十年(一五八二年)に三法師が二歳の時、岐阜から清須へ移して跡継ぎの礼を行い、美濃は信孝に与え、三法師は安土山城に置かせた、とある。

代わって岐阜城に入った信長の長子の織田三七信孝は柴田勝家に味方したため天正十一年(一五八三年)五月に尾州野間の内海で秀吉によって殺害された。その年、池田紀伊守之助(信輝の子)が摂州伊丹から移るも、天正十二年(一五八四年)四月九日に尾州長久手で二十一歳で討死した。

『太閤記』によると、同年、池田三左衛門輝政(勝入の次男)が池尻城、あるいは大垣から移った。天正十三年(一五八五年)に岐阜侍従輝政と称し、天正十八または十九年(1590か1591)に三州吉田へ移った。その後は三好少将秀俊(岐阜中将、豊臣秀長の養子、実は三宝師の子で秀次の弟)が天正十九年(1591)より岐阜に在城したが、文禄元年(1592)の朝鮮の役の際、肥前名古屋で病死した。文禄(1592-3)慶長(1597-8)の二回の秀吉の朝鮮征伐では、美濃の諸侯も従い、秀信は八千人を派遣した。(『濃飛両国通史』)


『安土創業禄』によると、落城して5.6月後に信長は師伝平手政秀の菩提を弔うため創建した政秀寺の開山沢彦和尚に井口の名を変えてもらい「岐阜」と命名した。「周文王起定天下」の祝語から中国の地名である岐山、岐陽、岐阜等から選ばれた。


落城と家康

この年、もと三宝師の岐阜中納言秀信(信忠の子)が石高は十三万石余で、秀俊の跡を継いで岐阜城へ移り九年間在城した。『太閤記』の文禄元年(1592)の記に「岐阜中納言云々」とある。あるいは信孝、輝政、秀俊は秀信の後見として居たともいう。秀信は慶長五年(1600)の関ケ原の戦いに当初は関東(徳川方)の味方に加わったものの、石田三成に味方して八月二十三日に岐阜城が落城し、高野山へ入った。岐阜城は慶長六年(1601)に徳川家康の命令(台命)により廃城となった。天守や居館、石垣を加納に移し広領とした。玄和五年(1619)に尾張領となった。

『御年譜』によると、家康は天正三年(1575)五月に岐阜で信長に謁見して長篠の救助を感謝し、以来幾度も岐阜を訪れている。慶長五年(1600)九月十三日に到着したのをはじめ、同六年(1601)十月十二日に伏見をから大垣、岐阜、加納に至り城地を視察し、同九月に伏見を出て、十九日に赤坂、二十日に岐阜、二十日に稲葉山で猟をして鹿七十二頭を獲た。さらに同十年(1605)四月二日には岐阜、同三日に赤坂、二十八日に参内、同年四月二十八日に岐阜で、夜に入って鵜飼を見て名古屋に至った。慶長十九年(一六一四年)の大坂冬の陣では十月十九日に岐阜に至り、二十日に柏原に至った。秀忠は元和元年(一六一五年)七月二十一日に赤坂に至り、二十二日に岐阜に至った(大坂夏の陣の帰陣は伊勢路である)。岐阜御殿の跡は因幡大門の北にある。

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)


岐阜市
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