『夫木抄』(延慶三年 [1310])
くろ田の里、尾張。海道宿次百首
遠近も 今はた見えずうば玉の 黒田の里の 夕やみの空
参議為相卿 遠近も今は全く見えない夜闇(うば玉のにかかる言葉)。黒田の里の夕闇の空。
岐阜海道筋の中島郡一宮の北西にあり、海道筋の村である。むかしは官道で黒田宿といった。(今も小名を南宿・北宿とよぶ)
『東鑑』に、建久元年(1190)十二月、頼朝公上洛帰路の條に、「十七日丁酉黒田」と見え、建長四年(1252)三月、三品親王宗尊将軍関東御下向の休泊を記すくだりに、「二十二日丙午晝黒田」と見える。和歌の名所であることは『松葉集』『秋の寝籠』等に記されている。また当地を「松支庄」ともいって、西園寺殿の御領だったが、公経が大臣の時に北山に西園寺を立て卸堂を創建したところ、その地は資永朝臣の御領だったので、朝臣とこの尾張の松枝庄と替地(交換)された。『増鏡』によれば、いま后の御父は、かねて聞こえている右大臣(實氏)の殿とその父殿(公経)の殿が、その昔夢を見なさり、源氏の中将が、わらはやみ(瘧病:マラリアのような症状)の祈祷をされた北山のほとりに、すばらしい御堂を建て、名を西園寺といった。ここは伯の三位資長の領地であったのを、尾張の國の松枝という庄にかえなさった。
『慰草』(正長元年 [1428])※現代語訳を加えています
くろ田という所に、幼い頃から育ててくれた人がおり、今はまことの親のように思っていると聞き、道すがら訪ねるべきところを人に問うなどして案内してもらう。
その人は限りなく聞いて喜んでくれた。とはいえ、ほかにも親のような人が都にあるようになり、若い心にあれこれと気を配り慰めなどしてきたが、ふと出ていきたい心地がして、都の物語などしつゝ明け暮らすにつけもと哀しい。こうしていつのまにか卯月(四月)になった。
この辺りは、前もうしろも田面で、林は軒近くに迫り、わずかに群生した竹が囲む。民家が所々点在し、萱の軒やアシの垣根が、さながら夏草の茂みに隠され、ヨモギや葎で門が閉じている。都からあづまへ行き交う旅人が過ぎる堤の道も、ただ葦垣の外にあるので、群れをなして通る馬の足音も、物騒がしいということも有るだろう。田んぼでは、田子が聲々に謡い、夜は蛙で耳がやかましく、都の人には珍しい心地がするだろう。
庭の木の下に卯の花がほのかに咲き
夜もすがら 光は見せようば玉の くろだの里に さける卯花
正徹法師 一晩中、光を見せておくれ、暗闇の黒田の里に咲く真っ白な卯の花よ
四月
すみ染の 黒田の早苗とる賤や 夕をかけて 袖ぬらすらん
同 墨染のように暗いなか、黒田の早苗をとる農民は夕暮れまで働いて袖を濡らすのだろうか
五月 六月
夕やみも 黒田の里の名には似ず さやかに見えて 飛ぶ螢かな
加藤磯足 夕闇が包む黒田の里の名に似ず、はっきり見えて飛ぶ蛍かな
夏
朝雪を
明けわたる 雪にくろ田の里の名も 猶うづもれず 飛ぶからす哉
市岡猛彦 夜が明け見渡す限りの雪に黒田の里の名も...。しかしその白に埋もれずに飛ぶカラスかな
冬
参考
『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)