岐阜海道筋の中島郡一宮の北西にあり、海道筋の村である。むかしは官道で黒田宿といった。(今も小名を南宿・北宿とよぶ)


『東鑑』に、建久元年(1190)十二月、頼朝公上洛帰路の條に、「十七日丁酉黒田」と見え、建長四年(1252)三月、三品親王宗尊将軍関東御下向の休泊を記すくだりに、「二十二日丙午晝黒田」と見える。和歌の名所であることは『松葉集』『秋の寝籠』等に記されている。また当地を「松支庄」ともいって、西園寺殿の御領だったが、公経が大臣の時に北山に西園寺を立て卸堂を創建したところ、その地は資永朝臣の御領だったので、朝臣とこの尾張の松枝庄と替地(交換)された。『増鏡』によれば、いま后の御父は、かねて聞こえている右大臣(實氏)の殿とその父殿(公経)の殿が、その昔夢を見なさり、源氏の中将が、わらはやみ(瘧病:マラリアのような症状)の祈祷をされた北山のほとりに、すばらしい御堂を建て、名を西園寺といった。ここは伯の三位資長の領地であったのを、尾張の國の松枝という庄にかえなさった。


『夫木抄』

くろ田の里、尾張。海道宿次百首

遠近も今はた見えずうば玉の黒田の里の夕やみの空 參議爲相卿

『慰草』

くろ田という所に、幼い頃から育てた人で、今はまことの親のようであるときゝ、道から訪ねるべき所、人に問うなどして案内してもらう。限なく聞きよろこびつゝ、さるはおやめく人も都にあるほどなりしを、若心にとかくいたはりなぐさめなどしありふるに、ふと出ていきたい心地がして、都の物語などしつゝ明暮し哀しい。こうしていつのまにか卯月になった。

このあたりは、前もうしろも田面で、林は軒近く、いさゝ村竹めぐり、民家が所々、萱の軒やアシの垣根が、さながら夏のかげにかくされ、蓬葎で門を閉じている。都からあづまへ行き交う旅人が過ぎた堤の道も、ただ葦垣の外にあるので、むらがって通る馬の足音も、物騒がしいことも有るだろう。田では、田子が聲々に謡い、夜は蛙で耳がやかましく、珍しい心地がするだろう。庭の木下に卵の花がほのかに咲き

夜もすがら光は見せようば玉のくろだの里にさける卯花 正徹法師

『同』

すみ染の黒田の早苗とる賤や夕をかけて袖ぬらすらん 同
夕やみも黒田の里の名には似ずさやかに見えて飛ぶ螢かな 加藤磯足

朝雪を

明けわたる雪にくろ田の里の名も猶うづもれず飛ぶからす哉 市岡猛彦

参考:『尾張名所圖會 後編 巻五』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

一宮市木曽川町黒田東町北13番地
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