白山社と称す。『延喜神名式』に針綱神社、『本國帳』に従一位針綱名神と見える。往昔は北の方の城山にあったが、天文六年(1537)八月東の方の平山に移し、慶長十一年(1537)中名栗町に移し、明治15年(1882)に今の地に戻った。旧地の平山の地を今は白山平という。
社領は慶長五年(1600)小笠原和泉守吉次が寄進した。当社はこの地の生土神(うぶすな)で、たいへん大社である。濃尾の総鎮守とされ、火随祭神は尾治名根連命[おわりはりなねのむらじのみこと]で、尾張氏一族天火明命[あまのほあかりのみこと]の子孫である。拝殿・渡殿・祭文殿・透垣・鳥居など厳かに建ちならび、左右の末社は三十六祠、堂々として鎭座している。じつに城下第一の霊社である。
例祭 幕末頃の様子であるが、八月二十七日試楽。同二十八日車楽、及び競子・ねり物があって、神興を余坂の御宿院へ渡し奉る。寛永十二年(1635)八月始めて執り行われて以来、今に至るまで絶えることなく続いている。町中の氏子の行粧は善美を尽くす。もっともこの日は遠近の老若貴賤の群集は言うまでもなく、尾北の壮観で、治平安民の祭典である。
御旅所 余坂にある。 延寶六年(1678、午)八月、領主成瀨侯の寄附であるという。
神主 赤堀氏。
『日光登山道之記』※最低限の現代語訳を加えています。
太田の驛で休み太田川をわたる。こゝより御嶽という所まで、左右ともに畑が続く。川を聞き〳〵申の時(午後四時)ごろ、やどり(宿)につき飯喰い酒飲んで、今日のつかれを癒す。このあたりに近い針綱の神主赤堀大隅守は知っている人である。こゝにやどる事を聞いて、太郎長門守を遣わして、大ぬさ(お祓いの道具)に様々なものを添えて送る。やがて対面して、語りながら過ごす。いよいよ別れを告げるにあたって、かの御社を遥かに拝んで
色もなきことの葉ながら此たびのぬさと手向けてあふぐ神垣 外山前宰相光實卿
(:色香のない言の葉であるが、この度のぬさを差し上げて神の垣根を仰ぐ
このたび日光の宮にみてぐら(奉納品)を届けるよう受けたまわって、木曽路を行き〳〵鵜沼の宿にて、針綱の御社を遥かに仰ぎ
都出でて旅のころものきそ路にと行く手はるかにあふぐ神垣 石井大納言行宣卿
(:都を出て旅衣を着て木曽路へと。行く方にはるかに仰ぐ神の垣根
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)