重吉村にある。むかしは三井の城ともいう。
田原藤太秀郷七世の末裔、尾藤尾張守知郷と子の隼人正知基の時、首藤を改めて尾藤とする。それより十六代又太郎重忠になって、信濃の小笠原長時に属す。其子尾藤源内重吉、信濃より本州三井里にうつり、大永年中(1521-1528)城を築いて居住する。しかし永禄の頃(1558-1570)、信長公によって落城し、三河に赴き、奧平美作守に与力して、甲州勢と戦い、三河國見代村で討死する。その子の尾藤又八郎重房、二男左衞門佐重直等は、城が落ちた際に西國に赴く。三男清兼ふたゝび三井の里に帰り、青木川の辺りに居住し、尾藤を改め、青木善右衞門清兼と名乗る。秀吉公に仕えて、文禄元年(1592)朝鮮征伐の時、浮田秀家の手に属し、戦功をたてる。その時、かの地の寺院に放火し、涅槃像の一軸を奪い帰国する。その軸は今、三淵の正眼寺にある。かつその母は海東郡神守の城主桑山重晴の舍弟の同姓市蔵の娘である。その後、故あって青木を省き、母方の姓に改め、桑山と称した。その子桑山左兵衞政明から子孫は代々続き、重吉村に居住する。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)