門前町西側にある。曹洞宗、武州忍の清善寺の末寺。山号は興國山。慶長(1596-)の初め、従三位中将忠吉君(家康四男・松平忠吉)が清須に在城の時、雲門寺という廃寺の跡にこの寺を建立し、旧名雲門から寺号とし、明嶺和尚を招請して開山とした。
和尚は武蔵國の人で、清善寺の住持だったが、道徳堅固にして、眠る事を好まず、昼夜を分かたず端坐して修行したため、道徳が現れて前もって死期を知り、種々の霊異を示して、慶長十四年(1609)二月二十八日に没した。これより前に、東照神君(家康)が明嶺を帰依し、忠吉君も同じく厚く帰依したため、清須に招請したという。忠吉君が没後に大光院殿と申したのは、この明嶺和尚が奉った御法號であるからである。さて慶長十五年(1610)の遷府の時、名古屋日置の地に移して、日置山大光院と改号し、 のちに今の山号に改めた。 寺領は忠吉君の寄附である。
本尊 釋迦の木像。
霊宝 天竺貝多羅葉(一枚)出山釋迦像一幅(兆殿司の筆)。觀音像(牧渓筆)善達摩像(周徳筆。何れも忠吉君の寄附。)
二天門 寛政三年(1791)の建立。二天の像は春日井郡鹿田村仁昌寺の観音堂に在った古像である。
光石地藏堂
牌堂
烏瑟沙摩明王堂 境内にある。この明王はむかし釋尊にちかひて、もろ〳〵の不浄を清浄に改める神通を備ったことが、『穢跡金剛經』に見える。毎月二十八日を縁日として、参詣の諸人が群衆となる。また一切の下部の諸病までも守らせなさる大悲願ある仏であるので、婦女子の参詣が特に多い。堂の傍に松の大樹・櫻の古木がある。
塔頭 陽秀院。大光院二世大庵の弟子嶺奕の建立。
石地蔵尊 陽秀院境内にあり。腫物その他一切の諸病を祈願する時、尊体に紙を張り、病が癒える時はその紙をとる事になっている。立願の諸人絶える事なくて、尊容が見える時がない。そのため紙張地蔵と称す。
大光院山門聯語 僧靈瑞
東海禹門登者悉是魚龍頭角。南方佛刹到者那勞鳥窠布毛。
(:東海の竜門に登る者は既に頭に角を持つ魚や竜である。同じように南方の寺に到る優れた者が、どうして鳥窠禅師の布の毛を労する、初心者向けの手ほどきをする必要があろうか。=修行を終えた者に今さら大げさな手ほどきは必要ない
大光院觀花 乾堂
老拙生涯作腐儒。世間名利兩虚無。僧房日暮看花去。嘯咏胸中與俗殊。
(:この老いた愚か者の生涯はつまらぬ学者に過ぎず、世間の名誉や利益は全く虚しいものだ。日暮れに僧房の花を見て去る。詩を咏じる胸中は俗と異なる。
大光院の櫻は盛過ぎたり
『狂哥鳩杖集附錄』
花に名は 大くわうゐんの絲櫻 さかり過ぎても 人ぞ絶えせぬ
米都
大光院の櫻を見て
『醉中雅興集』
咲きかけし 花のすがたの母衣武者は 一木同前の いと櫻かな
可吟
参考:『尾張名所圖會 前編 巻一』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)