厚見郡。名波和泉守が居城した。
奥平信昌は三河以来の譜代大名である。信昌は天正三年(1575)長篠の戦で武田勝頼の二万の大軍にかこまれながら、五百の兵で城を守り抜いた。この功により、家康の嫡女・亀姫を妻に迎え、家康の信頼も厚かった。さらに同十二年(1584)の小牧長久手の戦いや同一八年(1590)の小田原征伐でも戦功をあげ、同年八月には上野国甘楽郡小幡で三万石を与えらえた。慶長五年(1600)関ヶ原の戦にも参戦した。
関ヶ原の戦いから凱旋の途中、家康は中山道を下向しながら上方に備える要害の地を探した。そして、中山道の要路にあり東海道にも通じる加納に慶長六年(1601)三月、信昌を加納城主に封じた。信昌は美濃国内で十万石を、妻亀姫には別に上加納村と近之島村のうち二千石が与えられた。大野郡の更地村・西上秋村など十五ヵ村のほか、高科村・岐礼村・長瀬村が加納藩領となった。
信昌は民政に力を注ぎ、城下町を整備するとともに治水に尽力した。北は大野・本巣郡の山地から南は羽栗・中島などの水場地帯にいたる広大な領地の経営に苦心を払った。
信昌の三男・忠政が十六歳の時、徳川秀忠の前で元服し、忠の字を賜って忠政と名乗った。父と共に加納藩へ入り、同七年(1602)加納藩主となって六万石を領した。同一四年(1609)には摂津守に任ぜられ、四万石を加増されて計十万石を領した。しかし忠政は病弱であり、慶長十九年(1614)七月二日、父信昌に先立って没した。法名は国院雄立宗英。母亀姫が建立した加納の広国院に葬られた。
慶長一九年(1612)、七歳の忠政の長男・松平仙松が遺領を継いだが、翌元和元年(1615)に祖父の信昌も没し、祖母亀姫が後見となって仙松を助けた。元和七年(1621)正月、仙松は将軍秀忠に拝謁し、将軍の一字を賜り忠隆と称し、従五位飛騨守に任ぜられた。しかし、寛永九年(1632)正月、忠隆は二五歳で病死し、嗣子も無かったため、加納藩の領地は没収され家は断絶した。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『谷汲村史』(岐阜県揖斐郡谷汲村、昭和五二年)179、180頁