楽田村にある。臨済宗、京都妙心寺の末寺。山号は景徳山。
当寺は天文元年(1532、壬辰)の建立、野呂惟久の開基、泰秀和尚を開山とする。和尚は信長公と親交が深く、節々で当寺へも来て、その臣・平手政秀の菩提のために、一寺を建立する旨を命じなされば、泰秀は申し上げ、「我が弟子の澤彦を開山とし給え」とあったことから、政秀寺を創建された。その後、天正年中(1573-1592)、当寺の諸堂がことごとく兵火に罹ったので、政秀寺五世徹源和尚が、先師の古蹟であればと、力を尽くして再建し、この寺に移り中興となったことが寺伝にある。開山の泰秀は大徳の評判があって、常に諸國より雲水僧(修行に励む僧)が数百人集まった。中には、琉球國の僧があったが、この僧は帰國ののち、かの地に興禅寺という寺を建立し、そこから諸病の薬を多く当寺へ送った。また『永泉餘滴集』という医書を著した。
本尊 阿彌陀、木像。
湖山水 門内の池をいふ。信長公名付けたまひしとなり。
傘松 門前にある古松なり。これも信長公雨やどりありし時名付け給ふといふ。
宝篋印塔 小牧・長久手の戦いで討死した野呂助左衛門を供養する大きな宝篋印塔が山門を入った左にある。これは愛知県内で最大。
絶滅危惧種の「マメナシ」の大木が墓の西にある。マメナシは4月初旬頃に咲く。
参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)