織田信長の指示で美濃計略に当たった木下藤吉郎は、墨俣一夜城の築城に際してここで用材を集積し、陸路と水路に分けて運搬した。
慶応三年(1867)のお蔭まいりでは木曽川の舟便で桑名を経由して伊勢へ出たという(『小網村有来覚書記』)。
現在も木曽川左岸の堤に文政十三年(1830)の常夜燈が残っている。
北の中山道から松倉渡船、河田わたしを経て尾張へ続いた。「牛子わたし」とも呼ばれた。鎌倉時代に真宗を開いた親鸞上人や再興した蓮如上人がここを通ったと伝わる。
天正十四年(1586)の木曽川大洪水で河道が変わり松倉郷の大半が本流の河床となったため、領主・坪内氏は美濃方面への往来のため渡船を開設したされる。
江戸時代中頃、尾張一宮の真清田神社門前で三八市が開かれると、通行が一層盛んになった。
大正十二年に県道那加停車場線の県営渡船として認定されるも、昭和三七年八月の川島大橋完成で廃止された。
参考:『ふるさと川島の 主な史跡と遺跡 町の保護樹 民俗資料 今に残る伝統行事』(岐阜県羽島郡川島町、昭和58年)4、7頁