かつて高山陣屋下川辺出張所があった。
往古、飛騨から美濃へ通じる道筋の金山から袋坂を経て神渕に入り、北条峠を越えて津保川へ至る途中の肥田瀬村に陣屋が置かれていた。やがて享保十一年(1726)八月、加茂郡下の幕領は飛騨代官の支配下に組み込まれ、飛騨川を流化する木材管理もあって上川辺村に出張所が置かれた。しかし享保十四年(1729)の暮には、加茂郡西部一五ヵ村の願いによって下川辺へ移転した。
文化二年(1805)の支配領域
・加茂郡四ヵ村(下川辺・則光・栃井・石神)、
・郡上郡一八ヵ村(小那比・野々倉・厚波・田平・淵河・夕谷・小坂屋新田・中保・賀間・入津・東野・下野・横井・上沢・野尻・鹿倉・土京・安郷野新田)
・預所分として加茂郡一七ヵ村(上川辺・鹿塩・打屋・信友・夕田・大杉・今泉・木野・大針・酒倉・小原・和泉・水戸野・吉田・寺前・大野・小野)
・天保年間は恵那郡の大川村や水上村も支配領域だったようだ。
常駐した役人は上役として手付一名、下役として手代一名と、そのほか地役人として五、六名が在勤していたようだ。当初の規模は陣屋のほかに三軒の役人宅と蔵・高札場があった。現在は井戸のみ残っている。敷地内には稲荷社が祀られ、初午の日には餅米一斗五升と小豆で赤飯を作り、出入りの人々に豊作として振舞った。(『御陣屋引戻手続並書面』)
天保十年(1839)、天保の改革の一環で、下川辺役所の支配村々は高山陣屋から笠松陣屋へ移管された。村々にとって笠松は遠隔であり、また下川辺の郷宿は打撃を受けた。郷宿と加茂・郡上両郡の庄屋は下川辺役所の再配置を求め、勘定書等から天保十四年八月に加納へ赴いたが、若年寄の要職であった藩主・永井肥前守はすでに没していた。翌天保十五年二月には石神村に嫁いだ者の兄が犬山・成瀬家の家臣である縁を頼り、願書を見てもらい可能性を探った。さらに村の娘が奉公していた信州飯田藩水野家を通じ、飯田藩主堀大和守が幕閣にあったことから、飯田藩重臣・水野紋弥に願書を見てもらっている。弘化二年(1845)には、飛騨郡代・豊田藤之助が江戸へ向かう途上で中山道中津宿を通るとの情報が得て、郡上の庄屋衆と川辺の庄屋と郷宿の半右衛門が待ったが、大雨で上流の馬籠宿に向かわれたとのことで同宿で待った。郡代の用人永幡鎌輔に願書を渡し、意見としては郡代の交替時期なので都合がよいのではということだが、幕府領の訴訟は勘定奉行の扱いで筋違いとされ受理されなかった。
それで、木野村の庄屋茂平と郷宿の半右衛門は江戸へ歎願しに四月一日に出発し、挙母街道・東海道を経てニニ日に江戸浅草蔵前の旅籠に到着した。五月四日に下谷の役所へ願書を提出し、七日に呼び出され願書と絵図面の取調べを受け、九日には加茂郡下の村高と下川辺陣屋までの距離、肥田瀬村の絵図面などの提出が求められた。六月五日には虎之門御奉行に諮られ、御勝手奉行が聞済とし、老中へ進言され八日に決済を受け成就した。六月一九日に江戸を発ち中山道を経てニ七日に帰村し、八月一九日には郡中一同が寄合して陣屋修復を相談し、下川辺役所は高山陣屋支配のもとで復活した。
やがて十五年後の万延元年(1860)三月、美濃国の幕領は全て笠松郡代役所の管轄となった。陣屋には足軽並の小役一名が留守役として置かれたのみで下川辺出張所は廃止同然となった。幕末の慶応三年(1867)に再び陣屋復活の動きがあったようだが、翌年に明治維新がおきた。
参考
『美濃加茂市史 通史編』(美濃加茂市、昭和五十五年)317、318頁
中島勝国『下川辺陣屋引戻関係文書』(可児・加茂歴史叢書 一、平成一八年)
川辺町史編さん室『川辺町史 通史編』(岐阜県加茂郡川辺町、平成八年)187-193頁