旧湊屋文右衛門邸で、現在は喫茶店として営業している。
湊屋文右衛門
起(おこし) 湊屋の御注文縞は 織子泣かせの 三崩し
湊屋文右衛門、この村で「万商い」をしていた商人であった。享保十一年(1726)には荷物問屋を尾張藩から許され、起村へ所々から入ってくる船積の荷物を支配していた。また船庄屋の下で船方肝煎をしていた二人(又は三人)の中の一人として活動していた在郷商人でもあった。
寛政頃になると彼は「加賀・近江・越前に商い仕る者」となり、桟留縞、菅大臣縞を取扱い、遠隔地へ売却するようになった。文化・文政の頃、近江商人のほか、越前の丸岡、三国湊の商人たちが、濃尾の縞木綿生産地に入り込み、紀州日高郡産の綛糸を売込み、在地商人に前貸金を与えて、縞木綿の購入を行っていた。天保三年の越前丸岡藩の商人永田屋又兵衛の史料によれば、湊屋文右衛門が他所より多い300両前貸しを受けており、傑出している。文政十一年の丸岡商人千田屋又兵衛が文右衛門へ送った綛糸の代金3600両余ということからもわかる。
縞木綿の生産は文政(1818-)から天保(-1843)にかけて著しく発展した。『広益国産考』(大蔵永常、1844年)には「尾州より織出し諸国へ売出すこと数百万反とも云うべし」とあり、『尾張名所図会』にも「葉栗郡や中島郡の村々に結城縞・寛大寺縞などの織屋が、多くあって三都を初め、諸国へ運送する事夥しく年内に何万反ともはかりがたい」ともある。
参考 尾西市史編さん委員会『尾西市史 通史編 上巻』(尾西市役所、平成10年)342-