中世には神箆城・国府城・神野城・高野城、戦国時代には土岐城ともよばれ、鎌倉時代特有の天嶮を利用した山塞城で、現在は市・県の史跡に指定されている。

築城は土岐国房・光信も伝わるが、光衡の代より遅くないと考えられる。美濃守護は大内惟義の後、土岐光衛がなった。『群書類從本土岐系圖』に、光衡は文治建久(1188-1199)の頃、頼朝に仕え美濃守護となり、土岐美濃守と号して神戸城に住んだ。守護は一代で絶え、その子・光行は土岐郡浅野郷に住んだと書かれている。『尊卑分脈』にも美濃守と註するところがあり、守護の他に国司に任じたようだ。光衡は、建仁年中(1201-3)に美濃国守護となり、源氏から土岐氏へ改姓して神戸城を居館として整備、東方の神箆城を国府の城として改修した。

先に光衡は美濃の守護であったが、子の次郎光行は淺野判官と号し、後鳥羽天皇に仕え西面の武士となる。院司に列して判官代たり。『承久兵亂記』に「ときの次郎はうぐわん代みつゆき」と官軍だったが、承久の乱後の処分は明らかでない。なお、依然土岐郡に住み子孫が繁昌している。(『尊卑分脈』)

城跡の御殿跡には葵の井戸・礎石などが残り、昭和三四年九月の伊勢湾台風によって倒れた木の根元から、東西の出丸跡を中心に多数の柱(柵)穴が確認された。山頂は千畳敷とよばれる広場で、北は裏山に切通しがあり、南は物見などの名が残る。現在この広場には土岐神社が祀られ、明治三八年十二月、頼兼・国長に「正中の変」の忠烈により正八位が贈られている。

戦国時代には信長の岩村城秋山氏攻略や関ヶ原東濃合戦にも神箆城・土岐城の名がみえる。

昭和四八年、中央自動車道の建設に伴い、東出丸跡の部分が削り取られ、鶴ヶ城の名の由来に関わる地形の一部が失われた。

参考
『瑞浪市史 歴史編』(瑞浪市、昭和四十九年)276、277頁
『濃飛兩国通史 上巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)405、421頁

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