上流(↑)で伐採された丸太は、初めはバラバラに急流を下り、錦織綱場で筏として組まれた後、下流(↓)へと運ばれた。
一時数万石の木材を抑留することもあり、大雨等があって河川が氾濫し、数万の木材が激流とともに押し寄せることがあっても、これを安全に保全しうる設備が必要であった。そのため、川幅が広く深渕で、流れの穏やかな区域が長く続き、なおかつ屈曲が多い環境が理想であった。
ここは、木曽川の中央本流が呑江の大岩壁にぶつかって(左上の橋の手前)、下名折の突端まで凡そ1000メートル余りにわたり、流木が上流に向かって緩やかに大逆流する。この留木場突端の岩場で、留木を陸揚げして保管していた。
鎌倉時代に始まったとされている。足利時代の永正年間には、錦織村の河上綱場と筏場に役所が設けられ、通関税や使用料を徴収していた記録がある。
享徳元年(1452)、木曽山から伐出された京都南禅寺の建築用材が、大雨による洪水で錦織綱場の留綱が切れて流出した記録が一宮市妙興寺に残っている。
天文年中(1532-1555)に入り、木曽では高遠からの糧米が途絶し、木曽山の山林を伐採して糧米と替えていた。特に天文九年(1540)の大凶作では困窮甚だしくなり、山林の伐採移出も頻繫になった。この頃、木屋吉兵衛など岐阜(井ノ口)の木材問屋と取引が始まり、同時期に錦織の材木止綱場が始まったといわれる(『大桑村誌』)。
慶長五年(1600)関ケ原の戦いの後、徳川秀忠の命により木曽代官山村甚兵衛がここを掌握した。元和五年(1619)徳川義直が家康より尾張藩を拝領し、寛文五年(1665)木曽山林の経営を藩の直営に移すと、錦織奉行所が置かれた。奉行所は木曽川運材も兼務し、川並には筏番所を置いて留木裁許役を任命し、洪水の際の流木流失の監督などを行わせた。
幕末頃の錦織役所の留木裁許の管理区域は、上流の田立村から左岸は土田村、右岸は勝山村(現坂祝)まで及んだ。留木筏の川下げは錦織役所が全体を管轄していたが、後に北方の川並役所が草井村(左岸)と北鵜沼村(右岸)から下流および長良川上流を管轄するようになった。
木曽から川狩りした材木は、以下のような工程で錦織に運ばれ、さらに下流へ送られた。
深山から伐り出された材木は、毎年11月の渇水期になると、各支流を一本流しによって伐り出され、木曽川本流に集められて錦織の綱場に繋留される。上流から錦織までの日数は王滝は80日、阿寺55日、付知25日で、平均して一里(約3.9km)流下に約3日かかった。
集まった材木は、ここで筏に組まれ、下流の湊へと流送されていった。なお、弘化三年(1846)より安政六年(1859)まで十二年間は一部が下流の兼山湊まで狩下げ(バラ流し)されていた。
夏季の雨水期には、木曽川が氾濫し、綱場の親綱が貯木と流水の圧力に耐えきれず、一挙に木材が流失することもあった。
錦織役所(奉行所)は川狩材木に課税する機関である。寛永年中(1624-1644)の『尾州知行目録』に、「金山・麻生・錦織材木役銀百四十貫二百四十七匁餘」と見える。
『覺帳』には、以下のように税率や人役が記されている。なお、現代語訳して載せる。
一、当所の諸材木に対して十分の一の御役所銀を徴収する。(後の加筆に「只今は錦織奉行支配に罷成候」)そのきまりは手鑑と申す帳面一冊に記されている。山村甚兵衛家来一人、御國奉行の手代二人を置き、役銀を請求する。両替は金一両につき銀五十一匁二分、銭は銀一匁につき百三十八文と古来より定まっている。木曽から出る御用木に張る綱、および手伝人足は久々利和知の御役人足で行う。三箇村より出る御用木並びに商人木(民間材)に張る綱、同手伝人足、商人筏乗賃については役銀をから綱代や日雇い賃を支払う。
一、当村から犬山までの桴の乗賃は、 一乗につき米一斗を支給する。なお十三匁三分の板取村から出す木は同村の長屋氏が上納するとともに筏を管理する。(『古義』)
参考:
岐阜県可児郡兼山町『兼山町史復刻版』(平成16年)359頁
大矢兼成、加藤鐐三、蟹江猛、佐々木焏三、森留吉『筏』(日本いかだ史研究会、昭和54年)86頁
愛知県史編さん委員会『愛知県史 通史編4 近世1』(愛知県、平成30年)381頁
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)