本巣郡。
元祖は加留見中納言長勝卿の舊館の地である。長勝卿は、安八郡中川の加納村にて逝去した。軽海村にある長勝寺は、この古跡である。その後は朝倉太郎太夫高清が住んでいたが、その際、軽海の里に天台宗長翁院香柳寺を建立し、詠んだ歌に、
五月雨に 蛍集まり飛ぶ池に 風こそ匂ふ 香は柳寺
その後、高清は甲州(甲斐)へ移った。越前の朝倉氏は高清の末裔である。前述の寺は、永禄七年(1564)、織田・斎藤の兵火によって本尊・縁起・重宝など残らず焼失して、再興されることはなかった。この軽海の地は、数度の合戦場となった。永禄五年(1562)五月二十三日の夜戦において、織田勘解由左衛門信益が討ち死にしたのもこの場所である。
さて、朝倉氏の由来をたどると、第三十七代孝徳天皇の御子である表米の宮に始まるとされる。天智天皇の御代、異賊が襲来した際に防戦の功があったとして、表米王に「日下部」の姓が賜られた。その子を荒島といい、但馬国の太守として朝来郡(朝米郡)に住み、日下部氏の祖となった。その子である治良、国良、国守、乙長、磯主、貞禰と続き、十七代後の子孫が朝倉又四郎高繁で、その長男が太郎太夫高清である。高清の子は朝倉右衛門督広景といい、足利尾張守高経の臣下となって、越前国に住んだ。
広景の五代の孫を教景、孫次郎家景、弾正左衛門敏景(入道して英林)と続いた。戦功をたてたことにより将軍足利義政より越前を賜り、足羽郡(あるいは大野郡)の一条谷に城を築いて、文明三年(1471、辛卯)五月二十一日、黒丸の城から初めて移り住んだ。同十三年(1481、丑)七月二十六日没す。法名は宗雄。その子・弾正忠氏景、同十八年(1486、午)没す。二十八歳。その子・左衛門尉貞景は、永正九年(1512、壬申)三月二十五日没す。その子の弾正左衛門孝景、左衛門督義景と続き、天正元年(1573、癸酉)八月、朝倉義景・浅井長政・土岐龍興の三家は、織田信長によって滅亡して子孫は断絶した。
さて、軽海の里には、その後、土岐氏によって要害を構えられ、稲葉七郎越智通高が、康暦元年(1379)十二月、初めてここに入った。これより稲葉氏が数代にわたり当城の城主となった。通高の子の通兼、左衛門通祐、備中守通以(入道して元塵)と続いた。
元塵の代に至り、応仁二年(1468、戊子)の秋、御座野の里の遠見山に要害を構えて移り住んだ。稲葉元塵の『老国記』には、「我が館は、糸貫・六種の二川を請じて(引き入れて)要害とす」と記されている。元塵の歌、
岡の原 松の下草霜枯れて すみかや虫の 聲も淋しき
その子孫は繁栄して所々に住んだ。元塵の子は稲葉伊予守通富(法名塩塵)、その子が備中守通則であり、その六男が伊予守通朝(入道して一鉄斎(稲葉一鉄))である。
さてその後、軽海の城は六十年余にわたって空き城であったが、天文十一年(1542、壬寅)三月より、安藤伊賀守守就の弟・五左衛門守宗がここに住んだ。しかし、元亀元年(1570)五月十二日の夜、石津郡◎太田村の七屋敷という所にて伊勢長島の一揆と戦い、氏家常陸介(卜全)とともに討ち死にした。これによって、以後当城の城主は断絶することとなった。
参考
『美濃國諸舊記 卷之四』(作者不詳、寛永の末年頃か-1644)『国史叢書 美濃國諸舊記全 濃陽諸士傳記全』(編者黒川眞道・発行者國史研究會、大正四年-1915)より
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)