鵜沼驛

うる間

問屋場跡におく。

『後拾遺』(応徳三年 [1086])

東路に こゝを賣問といふことは 往かふ人の あれはなりけり
源重之 東路にここを売間というのは、行き交う人がいるからなのだろう

『藤川記』(文明五年 [1473])

東路の うるまの清水名をかへは しらしなたひに 立つの市人
一條兼良 東路のうるまの清水が名を変えれば、どこか分からないだろう立っている旅商人たちは

古くは各務の驛家があり、また宇留馬の市が開かれていた。『濃陽徇行記』から最低限の現代語訳して載せる

されば今に馬卒や遞夫で「うるま」と称す者が多い。この村は石高の割り振りにより東町・西町・羽場町・南町・古市場・小伊木・大伊木と七箇所に分かれている。この村内を七郷に分けた始まりは慶安二年(1649)のことで、のちの東町・西町の驛場に定まったのは慶安四年(1651)のことである。そのうち、古い驛場は今の南町古市場の辺りで、ここから各務野原の方へ古い驛路の跡が残っている。
西町は家敷八十八戸、人数三百六十人、馬六匹である。このうち宿内の家數二十九戸、人数百九人(上旅籠屋七戸、中旅籠屋八戸、百姓家十四戸)である。東町は家数百八戸、五百四十人、馬十五匹であり、このうち宿内の家数五十戸、人数二百四十人(上旅籠屋七戸、中旅籠十八戸、百姓家二十五戸)


賃銭は、上り(加納へ四里七町)が人夫一人につき八十三文、馬一匹につき百七十文であった。

元禄の改定で、十一箇村を差し替えて更に二十箇村を附けたが、享保二年(1717)に四箇村が替わり三村を命じ、最終的に十九箇村1万549石となった。

  • 助郷十九箇村
    深萱 追間 各務 須衛 持田 飛島 古市場 嶋崎 野口 熊田 東島 坂井 野村 柿澤 前渡 富岡 橋爪 下野 上野 木津

参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)