問屋場跡におく。
古くは各務の驛家があり、また宇留馬の市が開かれていた。『濃陽徇行記』から最低限の現代語訳して載せる
「されば今に馬卒や遞夫で「うるま」と称す者が多い。この村は石高の割り振りにより東町・西町・羽場町・南町・古市場・小伊木・大伊木と七箇所に分かれている。この村内を七郷に分けた始まりは慶安二年(1649)のことで、のちの東町・西町の驛場に定まったのは慶安四年(1651)のことである。そのうち、古い驛場は今の南町古市場の辺りで、ここから各務野原の方へ古い驛路の跡が残っている。
西町は家敷八十八戸、人数三百六十人、馬六匹である。このうち宿内の家數二十九戸、人数百九人(上旅籠屋七戸、中旅籠屋八戸、百姓家十四戸)である。東町は家数百八戸、五百四十人、馬十五匹であり、このうち宿内の家数五十戸、人数二百四十人(上旅籠屋七戸、中旅籠十八戸、百姓家二十五戸)」
賃銭は、上り(加納へ四里七町)が人夫一人につき八十三文、馬一匹につき百七十文であった。
元禄の改定で、十一箇村を差し替えて更に二十箇村を附けたが、享保二年(1717)に四箇村が替わり三村を命じ、最終的に十九箇村1万549石となった。
参考
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)