靈亀元年(715)、行基が創建して新福寺と称し、法相宗に属した。十年後の神亀二年(725)六月十八日には、この寺のみ尺余の積雪があり、黄金色に輝いたという。聖武天皇は勅使を遣わし、神祠を受けて宮社を建て来振大神を祀らせた。寺は勅号により来振寺と改められ、京松原極楽院の僧・成増を転住させ、七堂伽藍十二坊を建立され勅願寺となった(『寺伝』?)。なお、来振寺では心礎や遺瓦は見つかっておらず上の由緒の真偽は不明である。
のちに真言宗へ改宗した。鎌倉時代以降は寺社ともに繫栄し、二百余名の僧兵を抱えるほどだった。しかし享禄三年(1530)六月三日の根尾川の大洪水で寺領の田畑が流出し、永禄三年(1560)には織田信長の兵火で灰塵に帰したため、僧兵は離散して寺社は荒廃した。
参考:『大野町史・通史編』(岐阜県揖斐郡大野町、昭和六〇年)178、217頁