応永十八年(1411)、又守護代・織田常竹の本拠は下津にあり(『妙興寺文書』)、斯波氏の守護所も同地に置かれたとみられる。当時の青木川は現在よりも西を流れ、下津小学校敷地の東半分は河川敷に含まれていた。川西側の自然堤防は標高6-7mで、その上に下津城が築かれた。城の北には蛇池があり、そこから二つの小川が流れ出して自然の堀を形づくっていた。北西から南東にかけて削平された土塁とみられる低い土手が走っている。城の中心部・本丸は小学校の南西から西の畑地と推定され、その南側に二の丸・三の丸などの郭が続いていたと推定される。

もと古代政権は国衙の周辺一帯、現稲沢市の地域に政治・文化の中心機関をおいていた。ここは国衙にも近く、美濃からの鎌倉街道沿いの宿であって、青木・五条川による水路でも萱津(現あま市で庄内川と五条川の合流地点)と結ぶ位置にある。国衙の直接支配は国府周辺から中島郡、具体的には市内の八事追・野並・於田江などに及んでおり、尾張では熱田社が独自の勢力圏を形成していた。

鎌倉政権が成立すると京・鎌倉間の交通経路に沿った宿駅として下津・折戸があった。足利政権の守護制導入の際、下津城は守護所に定められ、応永年間(1394-1428)に斯波(しば)氏の領国支配が整えられた。その後の戦乱で周辺に諸城が築かれ、やがてその中の清須城に守護所が移転した。在国守護代織田氏が常駐していた。

大窯期の陶器など十六世紀中葉頃のまとまった遺物が出土し、守護所廃絶後の太田清蔵の居城に関連する可能性がある。本丸の水堀や、本丸の二の丸の境をなす水堀・土塁・ゴミ捨穴とみられる土穴・鍛冶跡から

参考:新修稲沢市史編纂会事務局『新修 稲沢市史 本文編上』(稲沢市長住田隆、平成二年)215-219頁

稲沢市下津高戸町
種別