羽黒城は、竹藪の中にある古墳時代の前方後円墳を利用している。 建仁元年(1201) 梶原景親(梶原景時の次男景隆の子) が築いたのが始まりと言われており、380年間程梶原氏の居城として栄えてきた。17代目の景義は織田信長に仕え、羽黒 3000石の領主となった。しかし、天正10年 (1582) の本能寺の変で梶原景義とその嫡男ともが殉死し、跡目を失い、羽黒梶原氏は断絶し、城は荒廃した。

小牧長久手の戦い(1584)

『太閤記』によれば、卯月十四日、羽黒の古城の修築を命ぜられ、堀尾茂助・山内猪右衞門尉・伊藤掃部助が置かれ、小牧山に対して十余箇所の向城の城主を定め、万掟の條物に記し、同ニ十九日に馬を納めなさった、という。稻葉通邦の『參考長久手記』によれば、十四日に秀吉が羽黒の旧塁を修復し、堀尾茂助吉晴・山内伊右衞門一豊・伊藤掃都助祐時に守らせた。また奈良高田(犬山の南西)に城を築き、稲葉右京亮貞通・長谷川藤五郎秀一を守衞とした、という。

梶原氏城跡

梶原源左衞門・同松千代は、織田家に属し代々この城に住んだ。『信長記』によれば、ここに尾張の住人・梶原左衞門尉の子の松千代丸、十三歳になったが、折しも病に犯され、自らの宿所に居たが、御所の中の様子をきゝ、「未だ幼稚といっても弓取の名手の家の子であれば、どうにかして我を連れて御所へ入れて欲しい、働く事こそ叶わずとも、ただ伏しながらも敵の刃にかかり、君(天皇)の御供になりたい」と、実に落ち着いて言ったので、同名の家の子又右衞門という者、「たとえ御所の中に入ったとしても、この有様では役に立たない」と強く諫めた。そして「君の父子が、今逆臣のために犯されたとして、もし御親族の人々、一度逆徒御追罰の儀があるかもしれないので、暫くは治療して、その折を得てから忠節を尽くすべき。御所へ馳せ参じ、この様子を申し上げて御名代に恐れながら信忠卿の御供したい」と言い捨てゝ、居た所をつんと立ち、馬を引き寄せ打ち乗った。

鐙を付け、二條に馳せ着き、 寄手に紛れて御所の中へ割って入った。広縁に跪き、松千代の為に委細に言上し、主の代わりに御敵を防ぎ奉ると申し上げれば、その忠節に感動され、長刀を下し賜られた。「屍は戦場に晒すとしても、後世の面目なり」と、頂戴して庭上に踊り出て、とんぼ返り・水車、八方を透かさず切って廻り、敵数十人をなぎふせ突き伏せ、しばらく防ぐも、寄手は猛勢であって、ものともせず入り込まれ、遂に討たれて没した。

羽黒里

幕末頃は羽黒村という。寛正の頃(1460-1466)閼伽井坊久喜という者が、尾州(尾張)羽黒を領知して、蜷川出雲守が掌ったことが『蜷川親元日記』に見える。

参考:『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)

犬山市羽黒摺墨
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