加藤隼人延隆入道全朔

西加藤と称して図書よりも裕福であったが、福島正則が◎清須に在城していた時、その意に背くことがあって誅殺されて以来、ひっそりと子孫が当所に居住している。

紹巴の『富士見道記』に「熱田に入って急いだのは、加藤全朔が駿河へ下るのを延期して開いてくれた会だからと、度々催促があったからである。そこで「露わけば 分けしを思へ 宇津の山」と記され、その他にもその頃の古記などに、この家の事は多く見える。

その子孫、及び加藤與三左衞門宗貞の末孫は、ともに当所にあって今も加藤氏を名乗っている。また、全朔の子の隼人景隆には男子が多くあり、隼人景延・傳蔵景好・彦宗景盛等の末孫が、 今もあって当所に居住している。

総じて加藤の数家は系図は確かであり、中でも東照大神君(徳川家康)から賜った御朱印などを所持し、由緖正しいが、御諱(いみな、上様の名前を恐れ多くも書くこと)を犯す事を恐れてこゝに略記する。

参考
『尾張名所圖會 前編 巻四』(岡田啓・野口道直、天保十五年-1844)

名古屋市熱田区旗屋2丁目9番7号