最初、武井肥後守助直がこの地を領し、土岐氏に仕え、後に斎藤、信長に属した。『信長記』によれば、天正三年(1575)二月、武井肥後守夕庵入道は二位法印に任ぜられた。その後、いずれも土岐家の家臣である土岐丹後守、森淡路守、龍川日向守、と続いた。郡上に居たとあるが、居城の地は未だ考察中である。
その後、郡上郡は両遠藤氏が分領した。しかし、天正十一年(1583)三月、岐阜城主織田信孝が柴田勝家と通じて秀吉に反旗を翻した時、八幡城主・遠藤慶隆は信孝に与した。天正十五年(1587)、秀吉は遠藤氏を加茂郡に移した。代わって秀吉は、稲葉右京亮貞通に本郡並びに武儀郡津保谷を併せて四万石を与えた。貞通は◎曽根より転じて八幡城に居り、長子彦六典通を津保の◎市柳城に置き、次子忠次郎に相生の中山城に治めさせた。三男に修理通孝あり。
文禄(1592-3)慶長(1597-8)の二回の秀吉の朝鮮征伐では、美濃の諸侯も従い、侍従の貞通は1400人を派遣した。
参考
『美濃明細記』(伊東実臣、元文三年-1738)
『濃飛兩国通史 下巻』(岐阜縣教育會、大正十二年-1923)