竜徳寺

池田信輝・元助の墓
竜徳寺の創建と再興

観応二年(1351)池田教衣が勅を奉じて当地を開拓し、雲門庄を賜った。もとは最澄開創の雲門寺(天台宗)があり、その跡に雲門山竜徳寺を建立した。(寺伝)

創建については諸説あり、天明四年(1784)の差出帳では国枝氏開基、美濃明細記で国枝一源氏が応永ころ建立と記されている。

寺はのちに荒廃したが、文明年間(1469-86)に国枝為助が悟渓宗頓を開祖、西川宗洵を住持として再興した。国枝氏の庇護のもと寺領は拡大し、土岐頼芸・斉藤道三・不破光治らが相次いで寺領保護の禁制を発給している。

慶長五年(1600)の関ヶ原役では国枝氏は西軍についたため、国枝氏居城の本郷城や養源院とともに竜徳寺も焼き払われた。

承応二年(1653)大垣城主・戸田氏信が寺領を寄付し黒印(寺領を免税とする)を付して保護した。

池田信輝・元助の墓

源三位頼政卿の弟に、左馬亮泰政という者がいたが、母方の伯父・紀朝臣秦貞の子となって姓を紀秦政と改めた。外祖(母方の祖父)の領地であった美濃國池田之庄(現岐阜県揖斐郡池田町周辺)に住み、池田蔵人と申していたが、やがて姓を「原」に改めた。勝三郎源信輝の代まで、代々池田之庄に居住していた。天文初年には、池田信輝の父・垣利は織田信秀に仕えて池田郡本郷の荻原に居住していた。

天文五年(1536)、信輝は尾張に生まれた。母が織田信長の乳母であったため、信長とは乳兄弟にあたる。はじめ信長に仕えて「信」の字を賜り、のちに将軍・足利義輝公にお目見えして「輝」の字を賜わって「信輝」と号した。のち武儀郡◎志津の城にいた。桶狭間の戦いなどで戦功をあげた。信輝の嫡子を紀伊守元助(之助・勝九郎政教とも)、二男を三左衛門輝政という。元助は美濃国◎大柿(垣)の城主であり、その室は一色左京大夫斎藤義龍の娘であった。また、二男の輝政は信長公の仰せによって稲葉山に天守を建て、要害の惣堀(外濠)を構え、山麓の屋敷を構えて新たな砦を作った(◎岐阜城)。

天正十年(1582)の本能寺の変の際は、信輝は明智光秀追討に加わった。信長没後は豊臣秀吉に従い、信輝は美濃大垣城主となり、子・元助は岐阜城主となった。

天正十二年(1584)三月、信長の次男・織田信雄が徳川家康と組んで秀吉と戦った際、信輝・元助父子は秀吉につき出陣した。父子は◎犬山城を奇襲して伊勢から尾張に戦場を移し、長久手山にて森武蔵守長一(森長可・◎金山之城主)らとともに秀吉公に従い、井伊直政(兵部少輔)と激しく戦った。この戦いで長一は先陣の追手鳥銃に当たって死ぬ(法名鐵岡秀公)。長一の首を取った本多八蔵は、大久保七郎右衛門の与力であった。信輝(入道勝入)は、当時二十二歳で槍を取った永井傳八直勝(のちの右近)に遂に突き伏せられた。安藤彦兵衛直次(のちの帯刀)は勝入の息子・紀伊守元助を討ち取り、永井・安藤の両人は共に家康の臣となった。こうして信輝・元助父子は長久手にて共に戦死した。

父亡きあとの大垣城は二男の輝政が継ぎ、その後三州吉田の城主となった。輝政はさらに功を重ね、慶長十九年(1614)の大坂陣の際は播州姫路の城を賜わり、それより淡路に移り、備前国を賜って岡山の城に住んだ。その次男・忠継は備前岡山藩の基礎を築いた。

信輝・元助父子の墓は、現大垣市林町にあったと伝えられるが、現在は竜徳寺墓地にある。

参考
『池田町の史跡と文化財』(池田町教育委員会、平成五年)18、19頁
『美濃明細記 巻第十三 茂々久岐根付録』(伊東実臣、元文三年-1738)

揖斐郡池田町
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