内田にある。臨済宗、京都妙心寺の末寺。山号は青龍山。應永二十二年(1415)妙心寺の日峯和尚が当寺を建立して、その師匠の宗因無因禅師を開山とする。日峯は尾張國に来遊して、継鹿尾山に至って、ある山寺に寓宿し、大蔵経を長年熟読したので、山下に住んだ里民等は、その道徳に帰依し、山を附属し、一寺を建て和尚を住まわせた。

古くはこの山に水が乏しかったが、師が居住してから、道徳によって甘泉が湧出するようになり、これによって瑞泉寺と名付けたと『扶桑禪林僧寶傳』に見える。日峯の名は宗舜、藤原氏、京都西嵯峨の人である。妙心寺第四世の性職で、文安五年(1448)正月二十六日に没す。日峯は字である。師の無因禅師は尾張の出身で、平姓、荒尾氏という。妙心寺の前住は、萬里小路藤房入道が隠居して住職となったが、その法嗣(跡継ぎ)となって妙心寺に住職し、應永十七年(1410)六月四日、八十五歳で没したことが『妙心寺六祖傳』に記されている。無因はもともと当国出生の人なので、師弟とも所縁あって、妙心寺の祖と仰ぐ。

そもそも当山は本堂・方丈・客殿等の諸宇山腹に列し、塔頭の左右の岩壁や山の斜面に建てられている景趣は、比類ない壮観で、瑞泉十境と称される。所謂

  • 大白峰 西の方伊吹山を望むをいう。
  • 萬松關 西の方各務野を望むという。
  • 西江水 西北の方木曾川の流をいう。
  • 十八灘 同じ流城下邊の瀬をいう。
  • 石頭城 内田渡の向の岩山をいう。
  • 宿龍池 方丈の後にある小池である。
  • 昆明池 境内にある。
  • 靈龜廟 鎭守社をいう。
  • 雲夢澤 方丈の後にある。
  • 扣玄室 方丈をいう。

等である。

本堂 本尊虚空藏菩薩。天竺竭摩の作。

鐘樓 中門の南にあり。

上鎭守社 境內にあり。

下鎭守社 總門外にあり。 福宮といふ。 宇賀神・天道宮を合せ祭る。

霊宝 無因和尚墨蹟。無因和尚畫像。(愚堂國師賛)日峯和尚畫像。(雪江和尚賛)文殊普賢二幅對。(兆殿司筆)觀世音像。(兆殿司畫、東福寺希雲賛。)出山釋迦。(顔輝筆)花鳥。(呂紀筆)大燈國師墨蹟。

塔頭

  • 龍泉院 應仁二年(1468)景川が建立したため、景川派の本院とする。
  • 臥龍庵 文正元年(1466)悟溪が建立したため、悟溪派の本院とする。
  • 輝東庵 文明元年(1469)特芳が建立したため、特芳派の本庵とする。
  • 臨溪院 文明十四年(1482)東陽が建立したため、東陽派の本院とする。

以上の四字を世に瑞泉寺臨済宗の四派と称し、開山國師の古伝、また雪江和尚の直伝とする。みな妙心寺の規矩を守り、官事と称し、また役者と号す。 景川・悟溪・特芳・東陽の四大和尚は、 あまねく世の人の知る大徳の禅師である。

  • 黄梅院 永享七年(1435)義天の建立。
  • 龍濟庵 寶徳二年(1450)雲谷の建立。
  • 妙喜庵 永享十年(1438)義天の建立。
  • 南芳庵 文明十七年(1485)天縱の建立。

義天・雲谷・天縱、ともに世に名高い学僧である。

寺領 秀吉公の御朱印より続き、性高院君及び國祖君の御黒印を以って拝領する。そのほか信長公の證文、また石川備前守等の書簡が多い。


『梅花無盡藏』

青龍則瑞泉寺山號。景川住之  萬里居士
數盡風流前輩倫。只今翁獨面猶春。洛花亦待來歸日。五鳳樓前眼一新。

(:青龍は瑞泉寺の山号である。景川がここに住む
数え尽くすことができるだろうか、風流な先輩たちを。今、翁が一人座る姿は春のようである。洛花もまた待つ帰る日を。五鳳樓の前で眼を開くだろう。


臨済宗の妙心寺派は関山慧玄を派祖とし南朝の帰依を得た為に足利氏の迫害を受けた。また、大内義弘が起こした応永の乱(1399)の時、妙心寺六世住持拙堂宗朴が大内義弘と関係が深かったため、寺院・寺領を没収され妙心寺は中絶した。室町幕府は足利義満の晩年を最盛期として各国の守護層の台頭により衰退していくと、禅宗の臨済宗の五山派も強力な守護者がなくなり、また文芸的傾向へ指向し衰退していった。やがて、五山派に代わるものとして、妙心寺派が臨済宗中最大になった。

妙心寺派は京都を離れ流祖開山国師ゆかりの地の美濃を辿り、やがて関山慧玄の四世日峰宗舜は当寺・瑞泉寺を応永二二年(1415)に創建し、ここを拠に教線拡大を図り、永享年間(1429-1440)に妙心寺を復興した。妙心寺はこの後、応仁の乱で被災するが、雪江宗深が再興に努め、戦国諸大名の帰依を得て、全国に勢力を浸透させた。

その門下の景川宗隆の竜泉派から明叙慶浚やその弟子希菴玄密は、飛騨・三木直頼と東濃・遠山景前を結び、また遠山氏が武田信玄と結ぶ仲介をした。

山門 表門

瑞泉寺の山門(表門)は金山城の追手門と伝わる。木造黒塗りの門である。城門の構造は、二本の本柱の上に一棟の本屋根があり、左右の本柱と裏側左右に控柱がつき、本屋根と直角の交叉した別棟の小屋根がついている。すなわち、その本柱との間隔は3、2メートルで、本柱と裏側控柱との間隔は2、6メートルである。その土台上に据えられた柱の間隔は、金山城追手門の間隔と一致する。

中央の門扉は観音開きで、その左右の土台上の間隔は1、2メートルで、潜り門と思われ、尚その左右は袖塀(そでへい-門の両側にある低い塀)となって、大手桝形の左右石塁に接続している。尚、門の向かって左側主柱に以下の掛札があって、金山城追手門を移した旨を明記している。

この門は、元美濃金山城の追手門にて、石川備前守当山に寄進せると也、時に文禄5年(1596)、今より三百八十年前也、昭和14年(1939)霜月誌

とある。しかし文禄5年は、石川備前守が、文禄四年秀吉から犬山城を与えられて、犬山城主となった翌年であり、慶長5年(1600)を文禄5年と誤記したと思われる。

裏門

かつて瑞泉寺には裏門があったが、近年、兼山の山城ミュージアムの前に移された。門扉の一部は後世に改造修理されているが、門扉開閉に「蝶つがい」を用いない古式の形式をそのまま遺している。門の主柱その他が金山城より移築当時の姿をとどめていることは、貴重な建物である。建立は室町時代初期で、我が国最古の城門である。犬山城一階と同じく鑢鉋(やすりがんな)が使われている。鑢鉋は室町時代の工具である。

参考
『尾張名所圖會 後編 巻六』(岡田啓・野口道直、明治十三年-1880)
岩村町史刊行委員会『岩村町史』(岐阜県岩村町役場、昭和三十六年)135頁
兼山町史
七宗町教育委員会、七宗町史編纂委員会『七宗町史 通史編』(七宗町、平成5年)288頁

犬山市犬山瑞泉寺
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